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9.同士と決意

 迷惑だろうかと気にしつつ、廊下を進んだ康頼は、開け放たれた障子の奥にゆったりと座している義朝の姿を見つけて、部屋の前で立ち止まった。ただそこにいるだけなのに、彼の周囲が華やいで見えて、義朝の美貌は見慣れるなどあり得ないなと嘆息した。 (なれど、為明殿がそれに揺らいでいるとは見えぬ)  十年も見ていれば、また別なのか。たたずんで、ぼうっと義朝をながめていると相手が気づいた。 「おや。おはよう、康頼」 「おはようございまする。その、ご迷惑でなくば、朝餉を共にと思いまして」 「うん、いいね。いいよ」  おいでと手を差し伸べられて、失礼いたすと傍に寄る。 「体は、もう大丈夫?」 「昨日は、ゆっくりと休ませていただきましたゆえ。もう、なんともござらぬ」 「それは、よかった。為明が見舞いに行ったみたいだけど、なにもされなかった?」  口を吸われたことを思い出し、ふわっと頬を赤らめながらも、なにもなかったと康頼は答えた。  おやおやと眉を上げた義朝の視線に恥ずかしくなり、康頼は自分の膝を見る。 (話をしに来たというのに、これでは)  朝の膳が運ばれて、ふたりの前に置かれる。飯と漬物、魚のすり身で作った団子の入った吸い物、焼き魚が乗っていた。部屋の外には世話役の男が控えている。ふたりは箸を動かして、食事をはじめた。 (食べているときならば気もゆるみ、話しやすいと考えたのだが)  控えている男が気になって、言い出せない。 (どうしたものか)  考えながらも、康頼の箸は止まらない。山の幸に慣れている康頼の舌には、まだまだ海の幸は珍しい刺激で、美味だった。 (ううむ、うまい)  いままで康頼が食べたことのある海のものは、塩か味噌で漬け込まれたものか、干物だった。川魚とは違う妙味に舌つづみを打ちながら、康頼はどう切り出そうか考える。 (ううむ……いかにきっかけを見つければ。しかし、うまい……うん、うまいな)  ぷりっとした魚の団子の歯ごたえに目を細めていると、クスクスと義朝の笑い声がした。目を上げれば、いつくしむ視線がそこにある。幼子を相手にしているようなまなざしに、己の未熟を感じた康頼は赤くなった。 「こちらの食事は、口に合うみたいだね」 「どれも美味でござる」 「それはよかった。須賀では海のものを食べる機会は、あまりないだろう」 「はい。干物や塩漬けなどはござるが、ふだんは川魚を食べてござる。あとは山菜や猪肉などでござるな」 「こちらも肉は食べるけれど、魚介類が多いかな。磯の香りにすっかり慣れてしまって、国に戻ったら物足りなくなりそうだ」 「磯の、香り」 「そう。ピンとこないかな」  康頼はあいまいに首を動かした。 「聞いたことはありまするが、実際に、どれがそうなのかと確かめたことはござらぬ」 「平たく言えば、海の匂いなんだけど。これがそうだと、説明するのは難しいかな。――体が本調子に戻ったのなら、港まで散歩に出ようか。海の匂いを全身で受け止めるのも、いいと思うよ」 「なれば、為明殿にうかがいを立てて」 「そんな必要はないよ。ふらっと出かけてしまえばいい。私が誘ったと言えば、為明も心配をしないだろう」  それほどの信頼関係を築けているのだと、暗に告げられて康頼の心が鈍い痛みを覚えた。 (いたしかたのないこと。なれど)  ふたりの間に入り込む隙はないと言われた気がして、鉛玉を呑み込んだ心地になった。  食事を終えて茶を飲んで、それじゃあ行こうと義朝が立ち上がる。康頼もそれに続き、玄関で世話役の男に「いってらっしゃいませ」と頭を下げられてキョロキョロした。 「どうしたの」 「供のものは」 「そんなもの、いたら不自由だろう」  おどろく康頼に、大丈夫だよと義朝が手を伸ばす。 「道はきちんと把握しているから」 「そういうことではなく」 「仰々しい恰好だと、街中に紛れられないだろう。人々のふだんの様子を知るのには、気楽な格好で出かけるのが一番だ」 「それは、そうでござるが」  チラリと背後を振り向くと、世話役の男は澄ました顔をしている。義朝が供も連れずに出かけるのは、珍しくないらしい。気になりつつも、さっさと道を行く義朝について、康頼は街へと向かった。  のんびりとした道行では、時折すれ違う商人たちが立ち止まり、腰をかがめてあいさつをしてきた。誰もが義朝を認知していて、親しみのこもった笑顔を向けてくる。 (国主の傍に在るものに対しても、気後れをすることなく正面から見据えてあいさつをする。それはつまり、国主と民との距離が近いということ。為明殿は民に慕われておるのだな)  自分のことのようにうれしくなって、康頼は自然と笑顔になった。武家屋敷の通りを過ぎて街中に入っても、人々の笑顔は変わらなかった。義朝の美貌は人目を惹く。立ち止まるほどではなくとも、誰もが笑みを浮かべて会釈をしていく。義朝はにこやかに応えながら、街中を港へ向かって進んでいた。 (なんと、にぎやかな街だろう)  須賀の国の城下町よりも、ずっと人が多い。誰もがどこかたのしそうで、見ているだけで気持ちがいい。どの店も人の出入りが頻繁で、旅姿のものも目についた。船で他所からやってきたのか、行商のためにこれからどこかへ出かけていくのか。 (なんにせよ、それがしの知る街よりも鮮やかだ)  店々ののれんや、人々の着物の柄など多種多彩で、さまざまな草花がいっせいに芽吹いた春の山に似ていると、康頼は故郷を思い浮かべた。 (冬の終わりを告げる、春の息吹のごとき街だ)  ふっと郷愁にかられて、康頼は家並みの上に視線を投げた。遠い場所に、青くかすんで山の影が見える。あの向こうが自分の故郷、須賀の国だ。 (こうしてながめると、ずいぶんと遠く感じるな)  康頼の視線の行く先を確認した義朝が、痛ましく頬をゆがめた。 「康頼」 「はい」 「国元が恋しくなった?」 「いえ、そういうわけでは。――ただ、ここからはずいぶんと遠いのだなと。街の様相なども、かなり違いまするゆえ」  うん、と義朝が静かにうなずく。 「私はもう、ここが普通になってしまっているけれど、他所から来たものたちは、ずいぶん栄えているものだと目を見張るらしい」 「やはり、異国船が入港するから……で、ござろうか」 「交易がある、というのは、そのぶん人の流動も激しい、ということだからね。だから、にぎやかになるんだよ。それにいまは、船がいるからよけいだな。それを狙って買いつけに来た商人や、荷下ろしなどの仕事を求めてやってくるもの、異国の船を見物しにくるもの。そういう人々の集まりを狙って、芸を披露しにくるものもいるから。異国船の入港があると、街に活気があふれるんだ。ちょっとした祭だと思っておけばいいよ」 「祭、でござるか」 「そう、祭。唐船なら年間十隻は入るけど、南蛮船はその半分もないから。捕鯨のために沖を進んでいた船が、補給で立ち寄ることもあるけれど、それはまた別だからね」 「南蛮人もクジラを食すのでござるな」 「鯨油が目当てらしいよ」  そんな会話をしながら進んでいくと、海の香りが強くなった。鼻をうごめかす康頼に、義朝が言う。 「これが、海の匂いだ」 「なにやら、しょっぱい気がいたしまする」 「しょっぱい?」  うなずいた康頼に、義朝が破顔する。 「そうか、しょっぱいか。まあ、海の水から塩を作るから、間違いではないよね」  妙なことを言ったかと、康頼は笑う義朝を見た。 「私はもう慣れてしまったから、こういうものだと感じるだけだけど。――そうか。康頼には、しょっぱい匂いなのか」 「ほかに、どう表現をすればよいのか、わかりませぬ。こう、空気が重いと言いましょうか、触れられる気がいたしまする」 「触れられる、ねぇ」  義朝が手を持ち上げて、空気をつかむしぐさをした。手のひらを広げても、なにかがあるはずもなく、空の手のひらを鼻に近づける。 「ここにいたら、わからないけれど。屋敷に戻ったら服や髪に海の匂いがまとわりついているから、重さがあるのかもしれないね」 「香のようなものにござるな」 「肌にも残る。為明の肌の奥には、海の匂いが染みついているよ」  さあ行こうと歩き出した義朝の背中を、康頼は嫉視した。 (それがしは)  自分が険しい顔をしていると気づいて、おどろきながら義朝を追う。 (義朝殿は、競う相手ではないとわかったというのに。なぜ)  為明の肌の奥の香りを、義朝は知っている。それがひどく腹立たしく、妬ましく、うらやましい。 (それをこれから目指す身ゆえに、羨望が暗い感情となって現れたのか)  なんと心狭く、あさましいのかと康頼は己を恥じた。 (為明殿の香り)  それがいま、身を包んでいる海の匂いであるのかと、康頼は深く息を肺に入れて、体内の空気を海のものと入れ替える。 (それがしの身の深くにも海の匂いがなじめば、為明殿とおなじになれる)  深く彼と親しみたい。傍に為明を感じたいと、康頼は空気の中に為明の気配を探した。 (それもこれも、国元のため。色夫として立派に務めを果たすため)  誰よりも強く為明に求められたい。誰よりも近く、為明に寄り添いたい。そんな自分の願いに、康頼の心は奮えた。 「もっと船の近くに行ってみようか」 「そのようなことをして、よいのでござるか」 「ここがどんな国なのかを知るには、港を知るのが近道だ。それに、為明の仕事ぶりもすこしは見られるかもしれないよ」 「為明殿の」  ドキリと心臓が跳ねる。このような場で、為明はどんな顔をして人々と接しているのか。 (知りたい)  どんなわずかなことでも、為明のことならば知りたい。 「どうする?」 「案内、願えまするか?」 「もちろん」  さあと手のひらを差し出され、康頼は首をひねった。 「これから先は、人や荷物がもっとゴチャゴチャするからね。はぐれたら大変だ」 「義朝殿にきちんとついて参るゆえ、問題ござらぬ」 「私が安心をしたいんだよ。手を繋いでいたら、目を離してもそこにいるとわかるからね。それに、浮かれているというか、殺気立っている場所もあるから。荷物や人が激しく行きかう中で、ケガをするかもしれない」  船のあるほうを見ると、人々がせわしなく動き回っていた。その中にこれから入るのなら、義朝に従っておくのがいいと判断し、きまり悪くなりながらも手を握った。 「それじゃあ、行こうか」 「よろしく、お頼みもうす」 「ん」  ゆっくりと歩く義朝に引き寄せられた康頼は、半裸のたくましい人夫たちが立ち働く船着き場へと足を踏み入れた。

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