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14.未知との会合

 康頼の気持ちがほぐれると、座の空気もゆるやかなものとなった。  マルチンが、自分は通詞として七年前にここに来たこと。その時から商館長は二度、変わっていること。商館長はとくに理由がなければ、二年か三年で交代になることなどを康頼に説明した。ふんふんと興味深く真剣な顔で聞く康頼に気をよくしたらしく、マルチンは壁の絵図を取り外してテーブルに広げ、これは世界地図だと示した。 「ここが私の国で、ここをこう」  と、指で地図に線を引いて日本までの航路を説明する。目を輝かせて聞く康頼に、為明は目じりを下げて、義朝はほほえんだ。  やわらかな時間が部屋に流れる。  はじめて触れる異国の文化や知識に興奮した康頼に、マルチンは話題を広げた。 「次に入港する船で、ヤギを運んでくる予定でいます。そうすれば、ここでボーテル(バター)やカース(チーズ)を作れる」 「ヤギ?」 「そう、ヤギ。ヤギの乳でもボーテルやカースを作れますよ」  ピンとこない康頼は、為明を見た。 「無事にヤギが到着したら、見に来ればいい」 「ボーテルやカースを作るところ、見学するといいです」  マルチンの申し出に、はいっと頬を紅潮させた康頼は義朝に目を向けた。 「そのときは、私がこちらに連れてきますよ」  席を立ったマルチンが、ヤギの絵がありますと本を探しに出て行った。 「義朝殿は、見たことがござるのか」 「私がまだここに慣れていなかったころ、商館にヤギがいてね。触れたことがあるよ」 「そうでござったか」 「ボーテルやカースも、そのときはじめて口に入れた」  なつかしいなとテーブルに視線を落とした義朝の目は、遠い場所に向けられていた。 (それは、誰に連れられて)  問いを呑み込んだ康頼は、義朝がふわりと顔を上げて、為明と目線で記憶を共有するのを見た。ズクンと康頼のみぞおちがうずく。目と目で語りあえる思い出を持つ関係に、嫉妬がふつふつと泡を吹き、康頼の腹は重くなった。 (それがしの入る場所はない)  その場にいなかったのだから、当然だ。そう意識をなだめてみても、暗いよどみが腹で渦巻く。 (どうしたというのだ)  自分にとまどいながら為明を見れば、ニコリとされた。笑顔を返して、紅茶を飲むふりをしながら顔を伏せる。いまの康頼には為明の笑みがまぶしすぎて、直視できない。  マルチンが戻ってきて、料理本を康頼に見せた。背中からかぶさるように目の前で本を開かれ、これがヤギで、カースはこれで、と絵を指さして教えてくれる。本に遮られて為明から自分の顔が隠れるのはありがたいと、康頼は意識を嫉妬に散らしながらも熱心に本に見入っているフリをした。 「マルチン」  冷たさを帯びた為明の声に、マルチンがおどけて康頼から離れる。 「あたらしい奥さんに、近づきすぎて怒っているのですね。大丈夫、そんな気持ちはありませんから。でも、かわいい人を近くで見るのは、いいことです」 「その呼び方は、やめてくれ。康頼には、きちんと名前がある」 「そう怒らないでください。すみませんでした。では、この本は為明に貸し出します。ですから、あなたが彼にいろいろと教えてあげてください」  片目を陽気につぶったマルチンが、本を為明に差し出す。受け取った為明と視線が合って、康頼はサッと目をそらせた。なぜだか気まずい。 (あたらしい奥さん、という呼び方を、為明殿は気にしておられる)  それはなにを意味するのかと、康頼は義朝を横目で盗み見た。彼は笑みをたたえてマルチンと為明のやりとりとながめている。ふたりがそうしている姿を、見慣れている顔で。  疎外感とは違う、集団の中での孤独を感じて康頼は息苦しくなった。じゃれあうマルチンと為明。それを笑顔で見つめる義朝の間には、共通する空気がある。それは康頼の目の前でわだかまり、薄い壁になっていた。  誰も、決して康頼を除けものにしていない。それなのに遠い場所に置かれた気になった。  そっと胸に手を乗せた康頼は、ここには自分の知らない時間が流れていると、ひそかに眉根を寄せた。 「商館長に、康頼のことを話しておきましょう。きっと歓迎して、食事を共にと言うはずです。義朝は、明日も康頼と港に来ますか」 「そうだねぇ」  どうすると目顔で問われて、康頼は頬を持ち上げた。 「ご迷惑でなければ、明日もまた案内していただけませぬか」 「お安い御用だ」 「それでは、そう言っておきましょう」  そろそろ茶会は終わりにしたいと遠まわしに告げられて、康頼たちは腰を上げた。商館の前までは四人で歩き、そこで為明とマルチンのふたりと別れる。 「明日は、この中でお会いしましょう」  マルチンに手を差し出され、康頼は右手を出した。強く手を握られて上下に軽く振る。義朝とは体を抱きあわせて頬を重ねたマルチンに、康頼はギョッとした。 「親しい相手とは、こうします。康頼とも、したいですけど」  マルチンは横目で為明を確認し、鋭い目を向けられて肩をすくめた。 「ふたりとも、気をつけて帰るんだぞ」 「私がついているから、大丈夫ですよ」 「今日は、馳走になりもうした」  あいさつを交わして、康頼と義朝は港へ戻った。仕事を終えた人夫たちが、船から離れていく。それを待ち構えていた客引きが、声を上げていた。 「この世は、知らないことばかりにござる」  船を見上げた康頼に、そうだねと義朝も立ち止まった。 「いろんな国があって、いろんな文化があって、いろんな人がいる。ほんとうに、不思議だよね」  吐息交じりにつぶやいた義朝の横顔は、どこかさみしそうだった。その理由を聞いてもいいのか迷う康頼に、義朝は笑いかける。 「私が異国船をはじめて見たのは、ここに来てすぐのころだったんだ」  船に目を戻して、義朝が昔をなつかしむ。 「あのころは、康頼とおなじで色夫としての務めを、きちんと果たさなくてはと気負っていた。そうは言っても、まだ子どもだったからね。できることなんて、膝の上に乗るとか、話を聞くとか、口を吸われるとか、その程度だった。私もあのころは、ずいぶんと初心だったんだな」  遠い自分にほほえみかける義朝の姿は、はかなくも美しい。もともとの美貌に積み重ねた年月がうるわしく寄り添って、艶麗な雰囲気となっていた。  熟した色香に、康頼の心がざわめく。マルチンの「あたらしい奥さん」という声が耳奥で鳴り響き、頭が痛んだ。 「為家殿の色夫として過ごしていたけれど、日中のほとんどはすることがなくってね。夜もそれほど……その、奥方がいらっしゃったから。そちらに通われることがほとんどで、閨の世話もろくにできない私は、ほぼ捨て置かれる存在だった。たまに気が向いたときに、玩具として遊ばれるだけで」  それはどんな日々だったのかと、康頼は想像してみる。しかし、うまく形にならなかった。 「そんなときに、異国船の入港があってね。見学に行くかと誘われて、うれしかった。そういうものに奥方は連れていけないから、私を誘ったのだと言われたけれど。たとえ代わりでも気にかけてもらえたのが、ほんとうにありがたくてね。色夫として、なんの役にも立っていないと思っていたころだったから」  だから、いまの康頼のあせりはわかると、義朝は言外に匂わせる。それを感受した康頼は、わずかに首を縦に揺らした。 「はじめて異国船を見たときは、屋敷が浮かんでいると思ったよ。多くの人間がこの中で生活をしながら旅をする。それは、どんなにおもしろい日々だろうかって、あこがれもした。私はほとんど、あの館の中で過ごしていたから」  だから義朝は、そのときの自分と思い重ねて連れ出してくれるのかと、康頼は納得する。 (さぞ、あせりばかりをつのらせる、退屈な日々であったのだろう)  こうして義朝がかまってくれていても、自分はそう感じているのだからと、康頼はおさないころの義朝をあわれんだ。 「そのときにヤギを見て、ボーテルやカースを口に入れたんだ。はじめは、まったくおいしいなんて感じなかった。生臭くて得体が知れなくて。だけど笑顔で、それを食べた。蒸された不思議な肉の塊も出されたよ。なにもかもが、はじめての味で衝撃が強かった」  これも役目と考えて、好まないものを笑顔で食べるおさない義朝を、康頼は想像した。 「為家殿は上機嫌で、私を商館長に紹介して、貸し与えた」 「えっ」  さみしげに笑った義朝の言葉の意味を理解して、康頼は戦慄した。 「大丈夫。為明はそんなことをしないから」  それを恐怖と見て取った義朝に気遣われ、そうではないと康頼は驚愕したまま首を振る。 (なんという……なんという扱いをされておられたのか)  その一事だけでも、道具のように扱われていたのだとわかる。 (色夫は人質という側面もござる。なれど、なれど)  本来の相手と深く交わるよりも先に、異国人に貸し与えられるとは。どれほどの恥辱と絶望だったろうかと、康頼は胸を痛めた。そして、それを告白してくれる義朝の心を計りかねる。  義朝は淡々と話を続けた。 「その次の日に、為明と出会ったんだ。商館に遊びに来ていた彼を、私は異国人の子どもが着物を着ているのだと思った。為明の髪は赤味がかっているから」  わかるだろうと示されて、康頼は反射的にうなずいた。混血児であるという前知識を持って為明と対面した康頼と、まったくの無知で知りあった義朝とでは衝撃の度合いが違う。おそらく、そこを含めて言っているのだと康頼は理解した。 「商館長に紹介されて、はじめて為明が誰なのかを把握した。存在は知っていたけど、会うこともないと思っていたからね。それから私は、ときどき商館に招かれた。泊りを要求されることもあったけれど、ほとんどは夕方までの暇つぶしというか……当時の商館長は、私がどんな暮らしをしているのか、知っていたのかもしれない。為明と私を遊ばせるために、呼ばれている気がしていたよ」  ふたりの親しみの起源を、康頼は複雑な気持ちで聞いていた。教えてもらえるのはうれしいが、喉の奥が詰まって息苦しい。 「いろんな遊びをした。私は為明と対等に接した。為明は通詞になり、私は色夫として為家殿に仕え続けるものだと思っていた。それがある日、突然に事情が変わった。――先代が、跡取りを為明にすると決めたんだ」  四年ほど前のことだと、義朝は商館のある方角に顔を向けた。 「いろいろと面倒なことが家中で起こって、為家殿は郊外の屋敷に住むことに決まった。実権はしばらく先代国主が握り、為明をよく思わない人間が落ち着くのを待った。そして今年、正式にすべてを為明にゆずることに決めた」 「それゆえ、それがしの輿入れとなったのでござるな」 「そう。私はいわば、為家殿のおさがりだからね。本来なら、為家殿と共に行くか、国元に帰されるんだけれど。先代国主と為明の希望で、こうなっている」  軽く腕を広げた義朝の笑顔は、どこかさみしそうだった。 「それは、義朝殿の望むことでごさったのか」 「為家殿のもとへ行けば、窮屈な暮らしが待っているし。国元に帰されても居場所はない。だから、ありがたいと思っているよ。なにより、為明の役に立てるから。為明は、そんなこと考えずに、ただ私のために引き取ると言ってくれたんだろうけど」  チリリと康頼の胸が嫉妬で焦げた。同時に、為明のやさしさに心が震える。なぜだか泣きたくなってしまった康頼は、ゆっくりと息を吸い、吐き出した。 「だから、康頼がこうして異国の文化に触れてくれるのは、とてもうれしいんだ。遠慮なく、私に案内を乞うてほしい。為明は康頼を大切にしているよ」 「それは、義朝殿もおなじではござらぬか」  跡目争いの相手に送られた色夫を引き取るなど、下手をすれば暗殺をされてもおかしくない。為明を推している周囲の反対も、かなりあったはず。それでも為明は義朝の身を案じ、信頼もして引き取った。それは並大抵の決断ではない。 (ふたりは、深い絆で結ばれておるのだ)  それを育んだ場所が、この港であり商館だった。そう思うと、康頼は商館に招かれるのがたのしみでもあり、恐ろしくもあった。  そんな康頼の気持ちを知ってか知らずか、義朝は「つまらない話をしちゃったね」と苦笑する。いいえと康頼が首を振ると、義朝は帰路へ足先を向けた。  横に並んだ康頼は、どうして義朝が昔の話をしたのかと考えながら、館に戻った。

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