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第372話.長男としての責務

応接室のドアは開いていたが、扉をノックしてから入る。 「お父様、お母様、お久しぶりです」 深くお辞儀をする。 親子であってもこれだけはちゃんとするようにと、耳にタコができる程言われてきた。 大切なお客様が来ることになったのだろう。 メイド達が応接室のテーブルクロスをかえたり、ソファのクッションのカバーをかえたり忙しく動いている。 僕を見て全員が手を休めてお辞儀をする。 そんなことしなくていいと思うけど、これもお父様の考えで誰も逆らえない。 「来夢、午後に大切な客が来ることになった。要件をすぐに済ませる。お前達は1度下がれ。またこちらから呼ぶ」 「「かしこまりました」」 10人弱いたメイド達は全員で声を合わせてまたお辞儀をすると応接室から出て行った。 出ていく際に開いていた扉は閉められた。 「来夢、学校はどう? 楽しい?」 それ程興味もないだろうが、お母様がニコニコとしながら聞いてくる。 「僕はこの家のことしか知らなかったので、寮に入って集団生活の難しさも感じています。でも、お友達も出来ましたし、先生方も勉強の教え方が上手いので充実した時間を過ごせていると思います」 質問には明確に答えることが大切で、同じ質問をもう一度させてはいけない。 「この家を出たことで得られるものが無ければ、聖凛に行かせた意味もないからな」 相変わらずお父様の視線は冷たい。 そんなに僕のことが嫌いなのだろうか………? 理想の息子とはかけ離れているから………? もう諦めたはずなのに、それでも親に嫌われていると思うのはやっぱり辛くて胸が痛い。 「あの、お話というのは?」 「うむ。靖くんから連絡があった。夏休み前にも家の方に来て欲しいとな。聖凛が全寮制であることと、試験が多い為に夏休みになってからでないと無理だと返事をした」 「お父様の手を煩わせてしまい、申し訳ありません」 謝る時も深くお辞儀をする。 「いや、夏休みに入ったら制服を持って来るようにと言っていた。忘れずに持って行くように」 「あの、やはり靖さんとの結婚は決定事項なのですか?」 おそるおそる言葉にするが、お父様の表情がどんどん険しくなっていく。 「来夢! お前はまだそんな我儘を言うのか?!」 「本当にワガママですか? 僕が少し調べただけでも靖さんに襲われた方々の情報が手に入りました。婚約者としてはそんな不貞は許せません」 「襲われたのはどちらか分かったものではないだろう? お金を持つ者には人が群がるからな」 あくまでも靖さんを正当化しようとするお父様に、話せば分かってくれるかもしれないなんて、僕はバカげたことを考えていたと痛感する。 「それでも、僕は靖さんを尊敬出来ません。おそらく好きになることも無いでしょう。そうと分かっていても、お父様は行けと言いますか?」 「当たり前だ。一緒にいることで気持ちが変わることもあるだろうしな」 拓海さん、やっぱり無理そうです。僕の心はポキッと折れてしまいそうです。 「お父様とお母様は好き合って結婚されたのですよね?」 「当然だな」 「その当然のことを僕は知ることが出来ないのですね?」 泣きたくないのに、気がついたら目に涙が溜まっていた。 靖さんのことを調べれば調べる程、僕に興味を持つのは10代までのことだろう事が容易に想像できる。 それから先は浮気をするのを黙認して、自分は籠の中の鳥となるのだろう。 誰かを好きになる喜びも知らず、好きになってもらう奇跡を願うこともない、味気ない人生を送ることしか出来ない。 子供を産まなきゃいけないだろうから、僕の心のよりどころは子供になるのかな………? 靖さんの子供をなんて考えるだけで震える程嫌だけど、僕に拒否権はない。 「泣こうが喚こうが、靖くんとの結婚は決定事項であることに変わりはない。結婚相手に決まってもう3年経つのだぞ? そろそろ覚悟を決めなさい。聖凛の卒業式の翌日を結婚式にする予定になっている。来夢もそのつもりで学校生活を送りなさい」 「来夢の幸せを思ってのことなのよ。分かってちょうだいね」 僕の幸せ? そんなものを願われたことなんてないよ……… 「僕の幸せ……? お父様とお母様の幸せの間違いでしょう………? そんなに僕のことが嫌いなら勘当してくれれば良かったのに」 思わず本音が口をついて出た。 「来夢っ!!!」 気がついたらお父様に頬を叩かれて体が飛んで床に叩きつけられた。 「あなたっ! 来夢、大丈夫? 誰か! 氷水とタオルを持って来て! 早く!」 お父様に叩かれた時だけ、いつもお母様は僕を本当に心配してくれる。 こんな時しか親の愛情を感じられない。 用意して待っていたとしか思えない程の速さで寺井さんが氷水とタオルを持ってきてくれた。 タオルで頬を冷やすと気持ちがいい。 これだけ早めに冷やすことが出来たのだからアザになることもないだろう。 「寺井、ありがとう。もう下がってちょうだい」 「かしこまりました」 寺井さんは一瞬だけ可哀想な子だというような目をして僕を見た。 きっと傍から見ても僕は親から愛されていない可哀想な子だと映るのだろう。 「来夢、お前を勘当するようなことはない。有栖川家の長男としての責務を果たしてもらわなければならない。分かるな?」 分かりたくもないけど、答えは決まっている。 「………はい、申し訳ありませんでした。お客様を迎える準備があるかと思いますので、僕は学校に戻ります」 頬の痛みは何度かタオルを氷水で冷やし直したから殆ど無くなっている。 このまま帰っても問題ないだろう。 「寺井に送らせたいのはやまやまだが………」 「必要ありません。お客様の対応を1番に考えて下さい」 「うむ」 「来夢、いつでも帰ってきていいのよ?」 「ありがとうございます、お母様。それでは、僕は行きますね。今日は貴重なお時間を割いてしまい申し訳ありませんでした。お父様、お母様、行ってまいります」 家を出るのを見送るのは寺井さんとメイド達だけ。 この家は本当に『自分の家』なのだろうか………? 聖凛高等学校に入学してから初めての帰省は、疑問しか生まなかった。

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