307 / 445

3

重い身体を無理やり起こして壁伝いに立ち上がると、グラリと視界が揺れた ふらつく頭を何度か振った後、彼は実に淡々とバスルームを後にした ーー足元ふわふわする まるで廊下が斜めになっているみたいだ......ちょっと切りすぎたかな それは彼にとっていつものことで大した事ではないのだ ただ今日は少しだけ、ほんの少しだけ失敗をしただけだ 蔑んだ笑みを浮かべながらヨロヨロとリビングに戻ると,ダイニングテーブルの上に置かれた彼の携帯が暗闇で光を放っていた 思わず飛びつくように携帯を掴むと画面にはメールが来ていることを示していた 血だらけの指で画面を触るとそれは簡単に表れた ”勝手にやれよ。 死ぬなら1人で死ね” 絵文字も何にもないシンプルかつ、心に突き刺さる文字 思わず自分が何を言ってこんな返事なのかと送った送信履歴を確認してみる ”帰ってきてよ! なんで?もう俺の事いらないの? 俺、お前いないと死んじゃうよ!” ”Re : だからそういうの重いって何回言えばわかんの? マジで勘弁して。荷物まとめて出てってくれ” ”本当に死んじゃうから。いいの?” ”Re : 勝手にやれよ 死ぬなら1人で死ね” ”だからお前は愛人なんだよ” 「チッ」 最後の文字を見るなり彼は 舌打ちして画面を睨みつける ”愛人” その文字に胸が締め付けられる それは彼の名前と同じだった 彼の名前はマナトーー愛人と書いてマナトーー マナトは自分の名前が大嫌いだった 彼の母親はまさしく誰かの愛人で若くして彼を産み、我が子にそれを証明するかのようにその名前を付けた 愛する人と書くのにその立場のあいまいさは周知の事実で幼いころからこの名前で損しかしてこなかった ーーこいつも終わりか... こんなこともいつもの事なのに、いつものように傷ついて、いつものように悪態つく マナトは壁や扉にわざとらしく血の手形をつけながら寝室に向かった 大して広くもない寝室には二人がギリギリ横になれるほどのベットが一つ 自分は確かにここで愛されていたはずなのに... だけどその恋は終わったのだ どうあがいても彼は戻ってこないどころか、こっぴどく自分を捨てたのだ クローゼットを開けると クリーニングされたスーツがいくつも並んで防臭剤の匂いが鼻についた マナトは物色するように吊るされたネクタイの中からおもむろにピンクのネクタイを引っ張りだした 「くそ野郎っ......」 思わず呟きながらネクタイを左手に巻き付ける その仕草が手慣れてしまっていることも自分自身で見てみぬふりを決め込んだ そのネクタイはマナトが彼に選んだものだった ーー悔しいからこれを止血に使ってやる どうせもう二度とここには来ないんだから 「嘘つきっ」 思わずこぼれだす本音は誰もいない寝室に響いた ーー俺の事好きだっていったくせに ずっと一緒にいるっていったくせに 身体を引きずるようにして玄関に向かう 靴をつっかけるように履いてもう一度だけ振り返った また俺は一人だ...... 忘れ物なんてあるわけない 俺には何もなかったんだから また今日から空っぽの俺だ 今日から?違う...最初から空っぽのくせに マナトは左手首を抑えるとたいした思い出もないマンションを後にした

ともだちにシェアしよう!