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「ひっく...んっ...ぅう...いっ」 泣きじゃくりながら胸に顔を埋めると彼はそれを許してくれる 髪を撫でて息ができなくなるくらい抱きしめて、これが夢じゃないことを証明してくれた 「そんなに俺が好きなの?」 そう聞かれたユウは腕の中で頭を擦り付けるように何度も頷いた 「俺のためになんでもできる?」 これにもユウは素直に首を縦に振った 今までだってなんでもやってきた 苦しいことも痛いこともなんでも耐えてきたのは彼が望むことだから ”何でもできる”はなんでも我慢することだと思っていた できる...こんな風にしてもらえるならなんだって頑張れる けれどミツルの次の言葉を聞いたユウはギクリと身体を強張らせてしまった 「俺の名前言ってよ」 言われた瞬間、流れていた涙がピタリと止まり、体中の血の気が引いた 「俺の事好きならできるよね?」 念を押すように言われてそろそろと見上げると優しく微笑む彼と目が合った 彼の言うことは絶対でなんでもしなくてはいけなくて...だけどできない事が一つだけある それは能力以上のものを求められる事 「ぅ...」 「ユウが言えて、先生が言えて、なんで俺の名前が言えないの?」 自分の名前ですらとっさに出ただけで「もう一度」と言われたらきっと言えないだろう そんなユウに出された問題は今までのどんなものより難解だった 彼の名前を知ったのはつい最近のこと 「せんせぇ」より長くて「ユウ」より難しくて、毎日せんせぇに教えてもらったけどできなくて... だから...だから... ユウにとってそれは一番難しくて、けれど一番叶えたいことだった 「俺の名前呼んだくれたらそれだけでいい」 「ぁ...ぅ」 たじろぐユウに彼は自分の大きな手の平を開いて顔の前にかざした 「10秒だけ時間をあげる、言って?ユウ、俺の名前」 「ぅ...?」 「10、9...」 有無を言わさずカウントが始まった ユウは数を数えることはできなかったけれど彼の指が目の前で折れていくのを見てそれが何を意味しているのか理解することができた きっと終わってしまう...指が全部折られたらきっと全部終わってしまう 「8、7、6、...」 まって...まって... 「んぅっ...いぃ...はぁっ...ぅぅ...」 はっとして遅れながらもユウはしゃにむに声を出した 焦る気持ちが空回りして舌が絡まっていく 必死に音を思い出しながら目をぐるぐる回して懸命に自分の中で同じ音を探していた 「5、4...」 「みぃっ...んくっ...ぃぃ...ぁ」 指折り数えられていくたびに彼の顔が見えていく 一心不乱な形相のユウとは違い涼しい顔で秒数を数えるほどに青白くなっていくように見えた 「3、2....1」 「いぃぃっ...みっ...ぃみっ...くぅ...んんぅ」 「0」 どれだけ努力しようとも終わりを迎えてしまう 誰もが簡単にできることがユウにはできないのだ 「みぃっ...「もういい」 カウントが終わっても続けようとするユウをミツルは一蹴した 「....」 汗だくになった身体はいつの間にか小刻みに震えていた 罰を受けることよりも彼の名前を言えなかったことが悲しくてジワリと目の前が霞んでいく あぁ...やっぱり自分はバカなんだなとユウはがっくり肩を落としてうなだれてしまった 彼は静かに胸ポケットから煙草を取り出すと火をつけて一息深く吸い込んだ その仕草がやけにゆっくりと見えて器用に動く長い指や揺らめくライターの炎、たばこに火がつく瞬間のチリッした小さな音も聞き取ることができるぐらいすべてがスローモーションのようだった ミツルはまるでため息のような長い煙を口元から吐き出してユウを見た 「ユウ、口開けて?」 「...ぅ?」 うなだれるように座っていたユウは言われた途端にピクリと反応してすぐに口を開けた これ以上彼を失望させたくはない...それだけだった 素直に従うユウの顎を掴んで彼はまだ長いままの煙草を顔の前にちらつかせる 「ぁっ...ぁっ」 目を見開いて怯えるユウの舌に彼は煙草を押し付けて吐き捨てるように言った 「もう二度としゃべらないでね」 ユウは彼の瞳の中に何かを見つけた それは傷だらけで汚くて誰もが目をそむけてしまうような...彼が言う「捨て犬」はこういうものだと思った それが自分だと気付いた時、ユウの中で何かがプツン途切れていった

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