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第三夜
癖のない紫がかった黒髪を胸元までさらりと流し、長いまつげに縁取られた切れ長の瞳は、差し込む日差しの光を受けて不思議な輝きを宿していた。
薄く笑みを浮かべているふっくらとした赤い唇に、ほっそりとした輪郭を包み込む白磁の肌はシミひとつなく、まさしく麗人と呼ぶにふさわしい。
身なりこそ黒い半袖のシャツにジーパンとどこにでもいる若者だが、なんとも目元にある黒子が蠱惑的であり、その青年の放つ華やかさも相まって、安達はしばし見とれてしまう。
中性的な美貌だが、骨格からして間違いなく男性だ。思わずカメラを向けそうになったが、寸前で手を止めた。
いやいやいや、まずは謝罪だろうーーー!
「あ、あの僕………蝶を追いかけていたら、ここにたどり着いて……悪気はなかったんですけど、どうしても蝶の姿をカメラに納めたくて。い、一応声はかけたんですけど、誰もいなくてーーーだから、す、すみません勝手に入ってしまって……っ!」
安達はガバッと勢いよく頭を下げ、おそらく10歳以上年下であろう彼に誠心誠意謝る姿勢をとる。
本当に申し訳ありませんでしたーーと続くはずの声は、だが、玲瓏した声に遮られた。
「ああ、もしかしたら、うちの子が一匹逃げ出したのかもしれませんね」
ちらりと後ろを振り返る彼に続いて扉を一瞥し、安達も唐突に思い出して、「そういえば、ドア、開いてた……」と呟いた。
その呟きを聞き取ったらしい青年は、にこっと笑い、不法侵入を咎めるどころか「ありがとうございます」と、礼を言った。
「多分、さっき様子を見に来た時に中途半端に締めてしまったのでしょうね。私としたことが迂闊でした」
今度はしっかり施錠しておかなくてはと、入ってきた扉がしっかりしまっているのを確認し、青年は安達の元へやってくる。
ゆっくりとした優雅な足取りで。
そして、安達の横に並び、おもむろに宙を眺めた。
二人の視線の先には、色鮮やかな蝶たちが、ヒラリヒラリと優雅に舞っている。
「どの蝶も綺麗でしょう?」
何事もなかったかのように話しかけられ、安達も柔らかな声音に誘われるまま、頷いた。
「はい……。僕はあんまり詳しくないんですが、それでも知ってる蝶もいるようです。あれは、揚羽蝶ですよね?」
誰もが知っているポピュラーな蝶を安達は指差す。
「蝶は春というイメージが強かったんですが、夏でもこんなにたくさんいるんですね」
「ええ。蝶は春型と夏型がいて、あの揚羽蝶は夏型ですね。春型は小柄で明るい色をしているのですが、夏型はそれより大きくて、色も黒っぽいんですよ」
見知らぬ他人だというのに親切に教えてくれる青年に見とれそうになりつつも『へぇ……』と感嘆し、安達は蝶の楽園ともいうべき温室を見やった。
そこには蝶だけでなく、色鮮やかな花々が咲き誇っていた。夏の暑さに強い品種なのか、向日葵のように大輪の花が多く、濃い色味のものが多い気がする。
「蝶も見事ですが、花もすごい……ここにはいろんな花が植えてあるんですね」
「蝶はとても美食家なんですよ。どの花の蜜でもいいというわけではなく、自分の気に入った花の蜜しか吸わないんです。ある意味、偏食、ともいうかもしれませんね」
一人で育てているんですかと疑問に思って問うと、彼はコクリと頷いた。
次いで、『この近くの大学院で、蝶の生態について研究しているんです。花も蝶も育てるのはそれなりに苦労しますが、どちらもとても綺麗で、見ていて心が和むのでやめられないんです』と言いながら青年は目元を和らげる。
『そういう貴方もとても綺麗です』と喉まで出かかったが、変人扱いされたくない安達は、懸命に言葉を飲み込んだ。
とはいえ、安達の関心は蝶から青年へと、すっかり移っていた。
「貴方が追いかけて来たのは、どんな蝶でしたか?」
「とても綺麗な……青というか、紺と紫が混ざり合ったような、不思議な色合いの蝶でした」
「それは夜光蝶かもしれませんね」
「夜光蝶、ですか……?」
聞き慣れない言葉を鸚鵡返しにすると、青年はコクリと首を縦に振った。
「ええ、夏の間だけ、夜になると月明かりを受けて翅か光るんです。まるで蛍のようにその翅がほのかに内側から輝いて見えるんです。この地域にしか生息しない特殊な蝶で、その翅の色から『紫紺 蝶』とも呼ばれているんですよ」
自分のことのように熱心に詳しく語る彼の声が心地よく、安達は一言一句聴き逃すまいと必死で耳を傾けた。
「それは、さぞかし神秘的でしょうね。機会があれば僕も見てみたいものです」
「宜しければ今夜見にいらっしゃいますか?」
ふふふと微笑みながら何食わぬ顔で誘われて、安達は己の鼓動を跳ねさせた。
「え?いいんですか?僕みたいなおじさんじゃ、迷惑にしかならないんじゃ……」
「ご謙遜を。貴方はとても魅力的ですよ?私は貴方みたいに何かに真剣に打ち込める情熱的な方はとてもタイプです。カメラを構えている貴方の姿はとても凛々しくかっこよかったです」
「…………っ!」
どう言い返せばいいかわからずに、頬を真っ赤にさせながら安達は狼狽した。
それはそうだろう、明らかに自分よりも美しい人からの賛辞など、どう扱っていいかわからない。
しばらく二人の間に奇妙な静寂が漂ったが、青年の微笑がその空気を断ち切る。
「ふふ……、すみません。ですが嘘ではありません。貴方は私のタイプなんです。なので、出来ればお近づきになりたいと思っていますーーー」
いいながら、長い指先にふわりと頬を撫でられ、安達はビクッと肩を跳ねあげた。
身長差は、おそらく頭一つ分だろうか?
身体の線は青年のが細く、安達の方が肩幅もしっかりしているが、彼の方が背は高く、安達の方が低い。
「ーーそれに蝶だって、貴方に見てもらった方が、喜ぶと思います。私だけではなく、ほかの男性にも美しいと褒められたがっているかもしれませんし、私も自分の育てた蝶を見てもらいたいんです」
美しさとは見られてこそですからーーーと言われて仕舞えば、安達もその通りだと賛同せずにはいられない。もとより美しいものは大好きだ。断る理由は何一つ思い浮かばない。
「じゃあ、そう……しようかな。君が許してくれるなら……今夜またお邪魔させて頂きます」
「ーーー……です」
「え?」
「私の名前は『紫紺 』です。なので呼ぶときは紫紺と呼んでください」
「紫紺……、夜光蝶と同じ名前なんですね……」
「そうです。さあ、もう一度、今度は名前で私を呼んでください」
紫紺の指に唇を撫でられる。耳元で甘く囁かれ、安達は夢心地のまま、ごくりと喉を鳴らした。
「……紫紺くん」
「はい、そうです。貴方のことはなんとお呼びすば?」
「僕は安達……、安達 要です」
「じゃあ、要さんとお呼びしても?」
「紫紺くんのお好きに、どうぞ」
「ではお言葉に甘えて、要さんとお呼びしますね」
間近で見る麗人の微笑は、危険だ。
モテない男の理性さえ危うくさせる。
「じゃあ折角なので、お近づきの印に。要さん、少し口を開けてくださいーーそう、そのままです」
言われるがまま、何も考えずうっすらと口を開いたら、紫紺の唇が押し当てられ、ゆるりと舌が差し込まれた。
自分の口腔で、他人の舌がくにくにと蠢く初めての感触に驚き、どうしていいかわからず安達は目の前の青年にしがみつく。
「ふ、んん……っ」
どのくらいの時間そうしていたか定かではない。
口腔を掻き回され、溢れた唾液を啜られたあと、紫紺の唇は銀糸を引いてゆっくりと離れていった。
見上げた先では、うっとりと、とろけそうな瞳で、紫紺が安達を見つめていた。
「ふふふ、ご馳走さまでした。では、また夜に。ここで要さんをお待ちしておりますーーー」
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