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第5話 声

「不手際がありまして、大変申し訳ございません。えっと」  あれ? もしかして、人違いか? 眼鏡はなし、びっちりシチサン、色は洒落れてるチャコールグレーなのに、どうしてか生真面目感が滲み出るスーツ。昨日のゲロ男だと思ったけど。 「レ点漏れということで」  いや、似てる。シチサンが朝一だから決まりすぎてて印象は随分違うけど。  もしかして知らないフリをしてんのか? 不器用そうだけど、案外器用なのか。インポかどうか確認したいと酔った勢いで寝た男が目の前にいたら、慌てふためくどころじゃ済まなさそうな、童貞真面目君っぽかったけど。 「それと、ハンコも忘れてたけど?」 「は……ひぇえ?」  素っ頓狂、な声だった。俺が話しかけたら、その声に反応するように、返事のようなおかしな声を上げて、そして。 「えっ? え、え?」  見る見るうちに赤面した。なるほど。見えてなかったのか。たしか、このくらい近くなら見えてたはず。五十センチ。  ほらな。そこまで近づくとしっかりと誰だか認識できたようだった。 「あああああ、あな、あな、あなっ」 「ちょっと、作業現場まで来い」  あな、の後、何を言おうとしてるのかわからないけど、こいつならありえないことも口走りそうで、慌ててネクタイを引っ張り、犬の散歩のごとくその場を後にした。 「あああ、貴方はっ」  なんだ、そっちか。あな、貴方、ね。  いやいや、そっちだとしても、全然知らないはずの二人が実は知り合いで、しかもあんたが赤面したりすれば、なんだなんだ? って、身を乗り出してくる奴もいるかもしれないっつうのに。 「き、昨日のっ」  溜め息もんだ。  こんな真っ赤になって、指差してわなわなしながら、言い淀まれたら。 「帰れた?」 「へ?」 「まぁ、帰れたから、今、ここにいるんだろうけど。眼鏡を作る時間はさすがになかったか。見えてんの? さっき、あんま見えてなさそうだったけど。不便じゃない? 眼鏡ないの。ストックっていうか、前に使ってた眼鏡とか」 「あ、えっと」  あれやこれやと次々話したせいで、この偶然の再会から思考容量をオーバーしてるそいつは口をパクパクさせていた。  声で気が付いた? 目の前にいる男が昨日、散々抱きまくった脱童貞の相手で、ゲイで、あんたの一物に悦んでたって。 「か、帰れました。目は、あまり見えてないですけど、タクシーで」 「あぁ、なるほど」 「でも、今日も仕事なので、眼鏡、まだ作れてないです」  ホント、真面目だな。 「不便、ですが、仕方ないです」  律儀に俺の言ったこと全部に答えてる。そのシチサンヘアーがとってもお似合いだ。 「以前使っていた眼鏡はあることはあるのですが、その、小学生の頃のなので、視力が合ってないのと……サイズが」 「! っぷ、あはははははははは」  思わず大笑いした。さっきからずっと真っ赤な顔でしかめっ面になったそいつが、笑わないでくださいと、小さく抗議の声を零す。  何かと思った。言いにくそうにしながら、スーツの胸ポケットから取り出した明るい緑色が鮮やかなフレームの眼鏡を、なんともいえない、渋柿食べてますみたいな顔をして、かけて。  いや、これは、笑うだろ。  綺麗な整った顔にちっとも合わない子どもサイズの眼鏡はなんか寄り目をしてる変な奴みたいな感じだし。涼しげな目元、こめかみに食い込む眼鏡ってさ。 「は…………あははははははh」 「もう! そんなに笑うことないじゃないですか!」  一回堪えたのに、やっぱりその美形に似つかわしくない子ども眼鏡と、がっつりしっかりなシチサンヘアーがおかしすぎて笑いを止められなかった。 「その、貴方は大丈夫でしたか?」 「え?」  今度は向こうが質問をする番らしい。可愛い緑色の眼鏡を外し、また胸ポケットにしまい、真っ直ぐに、俺のほうへと顔を向ける。 「はっ、激しくしてしまったと思うので」 「……」 「びっくりしました。裸眼だとあまり見えてないもので、皆ぼんやりとしか認識できてないんですけど。その、貴方の声を覚えてたので」  ――ぁ、あっ、イくっ、ン、ぁ、もっと奥欲しっ。 「びっくりしました」  ――ぁ、ンっ、乳首、すげ、イイ、舐め、て。 「あ! そうだ! お金を! そう、あああ! 財布、デスクです」  ――そこ、好き、イっ。 「昨日、買っていただいた服の代金をお支払いしてないから」 「……」 「あとでお支払いしますっ、絶対に!」 『ここ? ここ、好き?』 「あ、あのぉ……」 「っ!」  突然目の前で手を振られて、我に返った。 「やっぱり、私、無理させてしまいましたか?」 「! だ、大丈夫! ホントっ」 「……」 「本当だって」  昨日、この男とセックスした。久しぶりに満たされた。 「そ、それで? って、そうそう、作業指示書、あんたさ」 「は、はい! 不手際を」  本当に目悪いんだな。自分で昨日書いただろうその指示書に目を凝らし、しかめっ面で紙を手元に引き寄せる。 「ここと……それから……」  このスーツの下にあの身体があるんだな。すげぇ、良い身体してたけど、運動しなさそうなのに。しかも営業マン。身体は資本だろうけど、それでも営業スタッフを並べて見比べたって、腹周りは肉が余ってそうな奴ばかりだ。 「なるほど……了解です!」  きっと、本当に確かめたかっただけなんだろう。真面目そうっていうか、真面目すぎるくらいだから、自分が不能かどうかを切実に知りたかっただけ。遊んでいるような雰囲気はこれっぽっちもない、規則正しいサラリーマン。  だから、あれは、正真正銘、一夜限りの出来事だった。 「そしたら、えっと、これ」 「いいよ。この項目で合ってるんだろ?」 「は、はい。でも、ハンコが」 「ヘーキ。ハンコじゃなくちゃいけないわけじゃない。ただそのほうが早いだろってだけ。サインでいいよ」  三國、綺麗な字だな。この男に似合うしっかりと止め跳ねに注意したお手本みたいな字だ。 「それじゃ、時間ないから」 「あ、はい」  男相手に、身体から始まる夜遊びをするような人間じゃないのは見てわかる。 「不手際が合ったのにも関わらず、迅速な対応をありがとうございます! 宜しくお願い致します!」 「あぁ」  そろそろ仕事をしないと、この車の作業を終わらせるリミットだってちゃんとあるわけだから。 「それじゃ……あ! それと!」 「は、はい!」  早く仕事しないと、だよな。 「昨日のこと、誰にも言うなよ」 「も、もちろんです!」 「よかった。俺、ここでカミングアウトしてないからさ。それじゃ。本当に、作業しないと間に合わなくなるから」  三國から視線を逸らし、作業に移ろうとしたら、少し伸びた髪がうなじに触れて、普段なら何も感じないはずなのに、昨日の感覚が濃すぎたのか、キスマークの当たりがジワリと熱を滲ませた気がした。

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