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第34話 愛しき十五分
「あ、天見はここで帰るか?」
「はい。すみません。手が……」
「大丈夫か?」
心配してくれる皆に怪我している右手を上げて、大丈夫だと答えた。
皆はこれから二次会へと向かう。で、明日のことを心配したりしつつも三次会……もあるかもな。誰かが三次会がどうのって言ってたのを聞いた。
「お疲れ様です」
一礼をして、二次会のカラオケへと移動する皆を見送った。
「……」
俺は明日休み。というより、感謝祭の仕切り役はそのお役目の褒美として、翌日休みを取れるんだ。受付の彼女も休み。俺も。そして――。
「お疲れ、真紀」
「……お疲れ様です」
もちろん、真紀も休みだ。
皆に見つからないように、少し離れたところで待ち合わせをした。彼女は明日休みだからって、二次会参加組に入った。真紀はこの真面目っぷりだから、付き合い、として酒の席にいたっていう感じなんだろう。二次会を丁重に断ってあっさり解放されていた。俺は、二次会までは毎年参加してたけど、ほら、今回は手の怪我があるから、辞退させてもらった。
「飲み直す? この辺だったら、美味い焼き鳥屋知ってるけど。あ、もししっかり食べたいとか、飲みの締めが欲しいとかなら、うどん屋を」
「……いえ」
もうずっと、打ち上げの二時間半飲み放題コースの間、ずっと。
「いえ、焼き鳥もうどんも、また今度がいいです」
くすぐったいのを我慢してたから、そろそろ限界なんだ。
「じゃあ、うちで飲み直しにする?」
「!」
「手、まだ痛いし、色々手伝ってよ」
下手くそ。ベッドへの誘い方がとても下手。難しい顔をしてぶっきらぼうで、スマートなんかじゃちっともない。でも、それが俺にはグッとくるものがあってさ。この不器用さすら愛しく感じるんだ。
うちの近くにコンビ二があるから、酒はそこで買えばいいよ。電車でなら駅三つ分下って、そこから歩いて十五分。少しあるんだけど、普段は車通勤だからあまり気にならない。むしろ駅チカで家賃が上がるほうがイヤだから。
もう十月、夜になると寒さを感じるようになってきた。
「チーフがさ、社内の昇級試験を受けないかって。俺、まだ整備士としては下っ端だからさ」
車の整備不良は命に直結する。だから、昇級させるのも、しっかりとした技術がなければ認めてもらえない。年数を重ねたから自動的にランクが上がるわけじゃないんだ。
だから余計に嬉しかった。
昇級試験はいくつかのランク分けがされてるけど、今回、それの勉強できるのなら、一級免許のためにもすごくいいんだ。
「すごいじゃないですか」
「うん! めちゃくちゃ嬉しい」
つい自然と笑ってしまう。
「車、すごく好きなんですね」
「あはは。そうだな。すごい好きだわ。車」
「……」
車をいじるのが好きで楽しくて、高校も工業系にしたし、その後の専門も即決で車の整備関係の学科を選んだ。産業技術っていうとこ。名前的には車の整備に関係なさそうだけど、そこは車、バイクそういう関係のエンジンのことをかなり突き詰めて学べる。エンジンを分解して元に戻す、チーフなんかがやってるオーバーホール的なことも学校でやったことがあるんだ。初めて触れるエンジンの内部にワクワクした。よく、そんな細腕で、エンジンの中なんて探れるのか? そもそも持てるのか? なんていわれることもあったけど。案外力持ちだったんだぜ? でも、その力持ちな部分があるおかげで、仕事してても大変じゃないんだけど。ネコ役としてはどうなのかっていう腹筋になってしまった。
「車、すっごい好きだけど……」
「?」
「手が黒くなるのがイヤだった」
初めてエンジン構造の勉強のために触れた時、真っ黒になったっけ。それがちょっとだけイヤだった。
「綺麗じゃないじゃん。手の、特に爪の間に残るだろ?」
ペニスを扱いてあげる手の爪先にオイルが染み込んでたら、少し萎えるかもしれない。手、洗った? ってなるかもしれない。けど、俺はそれでも自分の好きだったことを仕事にしたかった。車の整備士になりたかった。
「俺は!」
その手をいきなり掴まれて、大きな声を出すからびっくりした。
「俺はっ、この手、すごく好きですっ」
「……」
「仕事をしている貴方はカッコいい」
「……」
「好きなことを、車を! 頑張って整備してる姿はすごく素敵だと思います! 何度か! 貴方が整備しているところを見て、見惚れた俺が言うんだから! 本当ですっ!」
真面目で真っ直ぐで、そして、素直な真紀の言葉は胸にやたらと響く。
「……本当です」
どうしても好きなものを取ったんだ。なりたい自分を優先させた。
「……ありがと。怪我した直後はすっげぇ落ち込んだ。何やってんだって」
言いながら、右手を真紀に見せた。
真紀のことで頭ン中がずんと沈んでて、工具散らかしっぱなしのところに彼女がやってきた。それに気持ちが一気に波立って。
「でも、怪我したから、昇級試験の勉強もできる」
真紀とこうなるきっかけにもなった。
今、このオイルの沁み込んだ手を好きになれた。真紀がそう言ってくれたのが嬉しかった。だから、結果的には怪我をしてよかった、かもな。
「試験、頑張ってください。応援してます」
「ありがと」
まだこれから試験勉強なのに、もうすでに嬉しくて舞い上がってる。
「よかった」
「真紀?」
「手のこと、すごく落ち込んでると思ったから。すごく気にしてたっぽいから」
よく見てるよな。俺のことを。さっき酒の席でこの手をじっと眺めてたところをよく見てる。気にしてたんじゃない。考えてたんだ。この手がチーフみたいに無骨になっても、真紀なら、そう思って眺めて考えていたのを、その真紀に見られてた。
「痛みますか? って、痛むから、俺が一緒にいるんだった」
「……バカ」
本当に右手の代わりをしてもらうために呼んだわけじゃない。
「一緒にいたいからだっつうの」
「!」
段々と人がまばらになってきた。うちは駅から歩いて十五分。そろそろサラリーマンの仕事終わりにしては遅すぎる時間帯。そして、平日。もう皆、うちでゆっくりテレビを見てる頃だろ。
「す、少しだけ、繋いでもいいですか?」
そそくさと俺の左側に回った真紀が手を取った。怪我をしていない左手をとって、指を絡ませ、手を繋ぐ。
「なぁ、真紀」
「はい?」
「手、繋いで散歩デートしたのも初めて?」
車は大好きだけれど、この手の汚れをどうにかできないのかなって思っていた。この仕事は好きだけれど、この仕事じゃないものを選んでいたら、もう少し華奢なままでいられたかなって、考えたりもした。
「は、初めて! です!」
けど、真紀と一緒にいると、この手も、何もかも好きになれる。
「……そっか」
「な、なんで笑うんですかっ」
「笑ってない。微笑んでんだよ」
「微笑んでないですよ! 笑ってました」
「どっちでも一緒だろ。うるさ」
「!」
「っぷ」
「ほら! 笑った!」
たった十五分が愛しくて仕方なくなる。
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