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第42話 色付き遠足
「こ、ここ?」
「はい。こちらです」
その口調だと、なんか、俺、仕事で接待されてる気分なんだけど。
ほら、場所も場所だし。つか、ここ、なんなんだ。
「……マジ?」
「はい。マジ、です」
一日釣りを楽しんだ。俺は管理釣り場っていうから、なんとなく釣堀に近いものを想像していた。真紀がプリントアウトしてくれたパンフレットには川の写真があるだけだったから。
でも実際には普通の川釣りだった。ここからここが管理区域ですとだけされていて、養殖の魚も放流されるのかもしれないけれど、何かでプールのように仕切られてるわけでもない。ただの川。だから、紅葉のシーズン、もみじ狩りと合わせて自然を満喫しに来ていた観光客の中には一匹も釣れず、退屈そうに釣り糸を垂らしているだけのカップルもいた。家族にいたっては子どもは飽きて川辺で水遊びをしてたとこもあった。
でも、苔人間になった甲斐があったのか、俺たちはそれぞれ二匹ずつ釣ることができた。
昼飯はもちろんその魚を。有料だけれど、その場で調理もしてくれるってことで、川魚の串焼きに、道具一式をレンタルしての焼きそばも一緒に。
驚いたのは苔人間となった真紀の釣り運の引きの強さよりも、慌てるどころかてきぱきとした仕事っぷりだった。慌てふためいて、眼鏡がずり下がるくらい釣った魚にしどろもどろになると思ったのに。ちっともそんなことはなく、テキパキしてて、むしろ、俺が慌ていた。
そんな初めての釣りを満喫して、笑い転げながら向かった、今日の宿泊場所に、今度は苦笑いが零れる。
「ここって」
「誉さん……」
ここって、どう見たって高そうなんだけど。
「いらっしゃいませ。お待ちしておりました」
フロントはモダンな雰囲気の和風。入ってすぐ、新緑生い茂る森が目に飛び込んでくる。川沿いの旅館、大きな窓はまるで自然風景画を納めた額縁みたいにも思えた。
廊下に敷かれた茜色の絨毯は沁み一つなくて、ところどころには本物の花が生けられている。
「……こちらがお部屋になります」
マジか。
「お夕食はお部屋と賜っております。あと」
マジかよ。
「お湯のほうはかけ流しですので、どうかごゆっくりお寛ぎくださいませ」
どうすんの……これ。
「誉さん?」
話そっちのけで、部屋のすごさに驚いたまま、ついさっき自分が釣った魚のように、水音に引き寄せられて向かった先には。
「ちょ、真紀、これって」
「露天風呂付き和室です」
「ばっ、これっ、露天風呂っていうレベルじゃないだろ。いくらしたんだよ!」
旅行、一緒に行きたいと頷いたら、そりゃもう嬉しそうに笑って、あれこれと前もってプランを考えていたらしい真紀に任せていた。金、宿泊代半分出すって言ったのに、断って、けど、ひとりで支払えるくらいだし、山奥だし、そんな大層なとこじゃないのかもって。紅葉狩りも楽しめるといってもマイナーな場所だったから。だから、俺は。
――じゃあ、宿泊代分くらいサービスしてやる。
なんてオヤジギャグみたいなこと言って笑ってた。
「いいんです。貴方と一緒にお風呂でのんびりしたかったから」
「け、けど、ここ」
「初めての旅行なので」
お湯の少しとろりとしてそうな水音すらくすぐったい。
「飛び切りのところにしたかったんです」
「……贅沢しすぎだ」
「それに小さいところじゃ、大浴場行きたくなるかもしれないから。それはダメなので」
抱き締められて、誰もいないのに、誰も見ていないのに気恥ずかしい。
「なんで、ダメなんだよ」
「誉さんの裸、見られたくないです」
「! そ、そだ! 真紀!」
「は、はい!」
照れ臭さのせいで、声がやたらと大きくなった。
「敬語、やめろよ」
「堅苦しく感じますか?」
「ううん。そんなことない」
真面目な真紀だから、そんなの無理かもしれない。でも――。
「なんか、すごい豪勢なところだし、身分違いっつうか」
指先が目に入る。畳の間に置かれた指紋ひとつないテーブルにすら触れて良いのかと戸惑ってしまう。
「接待とかみたいっつうか」
「……」
「わかりました。ぁ……すみませ……ご、ごめん」
染み込んでるからそう簡単には直らないよな。本人も自然と口をついてでる敬語に困った顔をした。
「無理、しなくていいよ。悪い」
別に真紀のかしこまった言葉使いが嫌いなわけじゃない。困らせたかったわけじゃない。距離を置かれてると感じるわけでもない。むしろ、真紀らしくて気に入ってる。ただ、テンションが高いから、なんか、もっと。
「イ、イチャイチャしたかっただけっ」
遠足の日みたいに楽しみにしてた。いつもと違う風景、机も、椅子もなくて、教室じゃなくて、バスに揺られてる間に友だちとおしゃべりして笑ってると、ワクワクして、何を見ても素敵に思えた。何をしても楽しかった。近所の公園にあるようなただの草っぱらですら、ずっと大笑いしながら走りまわるみたいに。
全てが特別な時間。朝起きた瞬間から、一分一秒が特別な色をつけてる。
この旅行もそんなふうに、ずっとはしゃいでたから。おやつのチョコレートから、釣りで魚を釣り上げた瞬間叫んだことにも、真紀の手際のよさひとつにだって、はしゃいでた。遠足にみたいに特別な色がついている。
「いいよ! 別に!」
けど、真紀の癖なんだ。無理に直す必要ないし。無理矢理直すものでもない。いつもどおりで大丈夫。いつのまんまで。
慌てて、掻き消すように、声をあげる。部屋の中を歩き回って、今さっきの言葉を追い出してしまおうと思った。
その手を引っ張られ、懐にぎゅっと抱き締められる。もちろん、俺がすっぽり入れるわけないんだけど、それでも腕をめいっぱい広げて捕まえられた。
「善処、する」
「……」
「と、とりあえず」
「……」
たかが敬語を取るだけでも、真面目に務めようとする。抱き寄せられて、離され、真正面に来させられて、睨むように見つめられる。真紀は難しい顔をしていた。敬語がぽろりと口から出てしまわないようにと。口を真一文字に結ぶ。
「とりあえず、部屋の中を、た、探検しようぜ」
「……っぷ、あはははは」
「し、仕方がないだろ! ふ、不慣れなんだから」
本人は無自覚だったのか? セックスん時、真紀は興奮が行きすぎると、敬語じゃなくなる。それを本人はわかってるのか。わかっていないのか。
けど、可愛かった。
「あぁ、探検しようぜ」
こんな上流階級が利用しそうな旅館で、優雅にするんじゃなくて、探検なんていいだすような真紀が。生真面目に苔人間に徹して、あの辺りで一番のでかい鮎を釣り上げるこいつが。そして――。
「じゃあ、まずは……風呂? 真紀」
「あぁ、いいな。それ」
「失礼いたします」
「!」
「こちらを……ご予約いただいておりました、ウエルカムドリンクでございます」
いきなりじゃないけれど、もう夕飯時まで来ないと思っていた仲居の女性の再登場に、キスをしようと抱き合った俺たちは飛び上がって、急いで離れる。
「ごゆっくりおすごしくださいませ」
本物のセレブみたいじゃん。ウエルカムドリンクがスパークリングワインなんて。
(探検は、あとで、な)
仲居の女性には見えないところで、そう口元だけで言葉を交わす。まるで、子ども同士の内緒話のようなそれに、真紀が耳まで真っ赤にして照れていた。
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