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第47話 クロワッサン

 やっぱ、シチサンを作れるだけあって、真紀んとこのワックスは無理だろうなぁ。ガッチガチに固まるもんな。しかも、二種類あるんだけど、これ、なんで二種類あんの? この前、この青いラベルの、小さいほうのはソフト系かと思って借りたら、びっくりするくらいにガチガチになって、朝からシャンプーし直した。ほら、メインはガチガチハードで、たまにアレンジでソフト仕上げもとりあえず持ってるパターンかと思ったんだ。  でも、違った。どちらもガチガチ仕上がり。この赤と紫の縞模様のほうも超スーパーハードって電気が走ったみたいな字で書いてあるし。 「……右左で分けてるとか?」  右の三のほうが小さいやつで、左の七のほうがでかいやつ、なんて。自分の呟きに自分で笑った。どっちにしても、両方、俺は使えない。真紀んちに泊まる度に持参するほど髪を気にしてるわけじゃない。どうせ、仕事の最中は帽子を被るから、ボサボサになるんだし。かといって、置かせてもらうのも。 「……」  どうなんだろうな。ここに、そういうの置いたら。歯ブラシくらいなら、ありだけど、ワックスとかだとさ。真紀は使うことがないだろうソフト仕上げのなんて置かれても、邪魔だろうし、なんか、こう……。  今も、借りている真紀の部屋着。翌日の服と下着は持参。あとは借りてる。真紀がうちに来た時もそう。身長は多少向こうが高いけれど、服が身長一センチごとに作られてるわけもなく、サイズとしては同じ物を着られるから、たいして困ることはない。そう、借りれば何も困らない。たったひとつ、このワックスくらい、かもな。そういや、あいつはいつも持って来てるのか?  ふと浮上した疑問を訊いてみようかと顔を上げたら、ちょうどバターの良い香りがした。、そして、俺の腹の虫が一気に騒ぎ始める。  今日はクロワッサンとか? 俺、好きなんだ。クロワッサンって。けど、いくら食べても無限に腹に入りそうな気がして、自分ではあまり買わない。 「誉さん、朝食できましたよ」 「あ、うん。ありがと」  当たった。  真紀に言われて、リビングに行くとテーブルに山盛りになったクロワッサンがあった。ちょっと驚くくらいの大盛りだ。 「どうぞ」  朝、俺んちに来た時の朝食は和食。オーブントースターがうちにはないから、パン類が焼けないんだ。 「誉さん、クロワッサン好きでしょ?」 「あ、うん。なんで知ってんの?」 「この前、うちで朝食の時に出したら、すごく嬉しそうにしてたから」 「!」  恥ずかしい。そんなに嬉しそうにしてたか? だから、こんなに大量に?  なんと返せばいいのか迷いながら、焼きたてのクロワッサンをひとつ自分の手元の皿に置いた。 「パ、パンはうちであんまり食べないから」 「俺は、誉さんの作るお味噌汁すごい好きです」 「あんなん簡単だろ」 「好きです」  だから、恥ずかしいんだって。真っ直ぐに愛の告白のトーンで味噌汁好きですとか宣言して。ただ、味噌と粉末だしを溶かしたお湯に刻んだネギを入れただけのインスタントみたいなもんだ。 「あっそ……」 「……」  味噌汁が好きって言っただけなのに、こんな赤面とかするなよ、俺も。 「…………あの、誉さん、お味噌汁は好きですけれど、お味噌汁を作る貴方のことが好きですっていう意味です」 「わっ! いいよ! 別に解説しなくても!」  わかってないかと思って、なんて生真面目に考え込んで、自分なりにぶっこんだ朝の愛の語らいみたいなものを解説なんてしなくていい。わかってたし。いや、わかってないけど、そこまで直球に好きだとか朝から言われたとか、自覚してたらイタイ奴だろ。 「……昨日、レンにすっごい言われた」 「レンさんに? あぁ、すみません。ちっともお話しできなくて」 「入らないって、腹いっぱいだってさ」  そこで首を傾げて、真紀もクロワッサンをひとつおかわりする。 「なんだっけ、酔っててあんまり覚えてないけど、蜂蜜とメープルシロップと三温糖とチョコレートとあと、何か色々甘いものを混ぜたみたいに、甘いって」  そして、俺ももうひとつクロワッサンを手に取った。 「言われた」 「……?」 「惚気がすごいってこと」 「あぁ」  そういうことか、とようやくわかったらしく、真紀が頷きながらクロワッサンを二口でたいらげてしまう。そして、またふと疑問が浮かんだのか、難しい顔をして、眼鏡を指先でスッと持ち上げた。 「惚気じゃないです」 「え?」 「本気で、真面目に言ってます」 「!」  だから、そういうところが激甘いんだって。 「あああ!」 「な、なんだよ!」 「そ、それって」  びっくりして、口に入れたクロワッサンを喉に詰まらせるところだった。いきなり大きな声を出すから。 「それって! 誉さんが惚気てくれたってこと?」  真紀な旅行からこっち敬語だったり敬語じゃなかったり。今は敬語を忘れるくらいにびっくりしたみたいだ。あまりに必死に、テーブルをひっくり返しそうな勢いで、嬉しそうに前のめりになったりするから、笑っちゃっただろ。 「そうだってば。俺が、惚気たの」  噛み締めるように俺の言葉に目を輝かせる、俺が好きだろうからって、クロワッサンの山を作ってくれた真紀が愛しくてたまらない。 「あ、なぁ、今日、真紀んとこの顧客の車検、俺が担当す、……」  笑いながら、またもう一つバターの香りが漂うひとつをその山から頂こうと思って伸ばした手が掴まった。そして、朝の挨拶はもうしたっていうのに、またやんわり唇に触れる柔らかさ。 「嬉しいです」 「……」 「それと、貴方のことが大好きです」  バターの香りと、真紀がくれた愛の言葉、あぁ、またこれをレンに言ったら、あいつは荒れるのかなぁなんて思っていた。 「これが作業指示書になります」 「あ、うん。ありがと」  今日の朝一の業務、真紀の担当している顧客の車検が作業予定に組まれていた。どこか不具合がないか、事前に真紀が顧客から伺っておいたシートを元にざっと車に目を通し、概算で作っておいた車検見積もりの通りにいけるかどうかを報告する、んだけど。  ちょっと最近仕事が押し気味で、朝のミーティング前からすでに作業に取り掛かっていた。  チーフの腰が悪化したこと、俺もついこの間まで手を怪我していたし、昇級試験のための勉強時間の確保が社命としてくだされている。年末になっていくにつれて増える事故車の修繕作業が突貫で三件入ってきてしまっての遅れだった。 「おっとっと」  足がちょっとだけグラついて、よろけたところを真紀の手が支えてくれる。 「大丈夫ですか? ほま、天見さん」 「……」  目で真紀を諭すと、あははと苦笑いを零した。 「あ! 天見! ちょっといいか?」 「? ぁ、はい」  一瞬、身体が身構えた。先輩の慌てた様子と、真剣な表情に、自然と息を飲んでしまう。  いや、バレるわけがない。すごく気をつけてる。それなら、どうして――。 「あのな、チーフが急遽入院になった」 「……え?」 「昨日の夜、どうにも動けなくなったらしくてな。いきなり階段で、腰に来てそのまま転落したらしい。命に別状はないが、怪我で入院してる」  今、入ってきた情報のようで、真紀も隣で目を丸くしていた。 「それでな、今日から」 「おはようございます」  臨時で隣の店舗から一級整備士の方が手伝いに、そう先輩の説明に重なって聞こえた挨拶の声。 「……あれ?」  その声は明るく元気で、どこか軽い。 「君は……」  そうこっちを見たその男は、昨日、俺をナンパしようとした、あの男だった。

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