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第48話 人の恋路を邪魔する奴はビンタでも食らえ
一級整備士はチーフと、チーフのことを教えてくれた先輩のふたりだった。店舗によってその人数はまちまちだけれど、一級がいないと仕事が滞ることがあるから、チーフの長期休業は正直店舗として困る。
そんなチーフが仕事をしばらく休まざるを得ないと連絡が入ったのは昨日の夜。家の階段でずっと悪くしていた腰が急に痛み、その場で足を踏み外し転んだらしい。足の骨折と手首のヒビ、それに落下の衝撃で悪化した腰痛。もちろんそのまま即入院だ。
会社はその連絡をご家族から受けて、隣の店舗にヘルプを要請した。隣の店舗はうちの倍の大きさがあるから、一級整備士の数が多かった。
「これが作業一覧ね……ふーん……オッケーオッケー」
ウソだろ。
「それにしても、輪島さん、腰大丈夫かねぇ。ヘルニアで手術だろ? まだ、この前の技術研修会の時にもしんどそうにしてたっけ。真面目そうな人だよな。あー、悪い、そこのジャッキ取ってくれるか?」
まさか、昨日のナンパ男がチーフの代打だなんて。短髪に小麦色の肌。見た目はうちのチーフよりもずっと若いけれど、もう準チーフらしい。
「天見、だっけ?」
「!」
「ジャッキ、この車のタイヤ」
「す、すんません」
慌ててジャッキを運ぶと、その手を掴まれた。
「整備士、かもなぁと思ったけどな」
「!」
「昨日……」
引き寄せられ、耳元で、意味深な声色でそう囁かれる。
あからさまに飛び上がるととても楽しそうに笑って、ジャッキをセットした。あっという間、テキパキと手早く、慣れた手つきで作業を進め、後ろにいる俺に軍手を取った手をヒラヒラ振って見せた。
「手でわかったわ。取れねぇんだよな。爪の」
そういうあんたは綺麗な爪をしている。軍手を外さず作業を続けんのか? でも、細かい内部を見る時なんかじゃ、軍手は邪魔で仕方がないだろ。それとも、その軽い口調で、部下に全部作業を丸投げとかしてるんじゃないか? チーフのことを真面目そうな人だと少し笑って言うくらいだ。俺にはあんたが、真面目、にはお世辞にも見えない。
「あれ、昨日のお相手? 営業にいんのな」
「……」
「三國、だっけ?」
「……」
「血相変えて面白かったな」
昨日も今朝も、同じように慌てておかしかったとその男が笑う。
車検の営業担当をしていた真紀と作業担当をしていた俺、追加でタイヤの交換をお願いしたいと、タイヤの種類の確認をミーティングついでにしに来ていた。そこに現れた昨日のナンパ男に真紀が顔を真っ赤にした。
俺をまたナンパしようとするんじゃないかと、一瞬、職場であることを忘れるくらい。瞬間湯沸かし器のごとく顔を赤くした真紀をその場からひっぺがし、あいつの職場であるフロアへと押し込めたんだ。じゃないと、あの場でこのナンパ男に何か言い出しそうな勢いだったから。
「昨日、じゃないです」
「え?」
「昨日、だけの相手、じゃない」
そう、真紀は、そういう、昨日だけの相手じゃない。
「……ふーん、妬けるねぇ」
よくあることだ。男女と違って、男同士、性欲優先で繋がる関係性。あるよ。過去数人と楽しんだことが、ある。
「恋人って奴? いいねぇ、一途なの」
「あんたには関係ない」
「警戒しなくても、職場でナンパはしないよ」
「ちょっ! あんた!」
「上司だ。鴨井(かもい)チーフ」
「……鴨井さん、あの」
「安心しなよ」
もうすでに一つ目のタイヤ交換を終えていた。
「俺もカミングアウトしてないんでね」
「……」
「だから、君のことは黙ってる」
軍手を外し、また次のタイヤに取り掛かる。
「あの営業君のこともね」
「!」
「聞いたところじゃ、まだ異動してきたばっかりなんだろ? それで、新しい職場の男と恋人関係。社内恋愛甚だしい」
タイヤを運ぶ鴨居の手は綺麗だった。チーフみたいに無骨な感じでもないし、俺みたいに爪に黒い沁みが残っているわけでもない。だから、同業者だとは昨日これっぽっちも思わなかった。
「三國はっ」
「まぁ、いいや。君のこと、気に入った」
「あいつはっ」
立ち上がり、その整備士らしくない手で俺の手を掴み、指を絡めて捕まえると、不敵に笑う。
「これ、落ちねぇんだよな。普通の機械油専用の石鹸じゃ落ちねぇんだわ。良いハンドソープ持ってんぜ?」
「っ」
絡まった指の力は強く、振っても引いてもビクともしない。その掌は俺を捕らえられたまま、ジタバタと暴れる手をおかまないなしに閉じ込めて、その指で、黒ずんだ爪をマッサージするように揉んだ。
「使わせてあげようか?」
「離っ」
男の、手だった。
「鴨居さーん」
「あいよー、今行く」
その手が、ほどけると強く捕まれたところがざわざわと神経を鋭敏に尖らせる。
「やれやれ。輪島さん、真面目だけど、真面目すぎて、仕事、溜め込みすぎだわ」
男を抱ける、力強くて、分厚い手を、していた。
「……はぁ」
疲れた。
――俺はもう上がり。お疲れ。真紀はまだっぽいから、うちで待っててもいい?
会いたい。真紀に。すごく。
「……」
更衣室のロッカーの中に溜め息を吐いて目を閉じる。
作業が驚くほど早くてびっくりした。でかい店舗でサブチーフをやってるだけのことはあって、仕事ができる人だと思う。
「へぇ、昇級試験受けるのか?」
「!」
突然声をかけられて飛び上がって振り返ると、そこにツナギの上半身部分を腰に巻き、Tシャツ姿の鴨井がいた。Tシャツを着ててもわかる山みたいに隆起した筋肉。ゲイ界隈でモテそうな身体をしてる。
「えらいねぇ。勉強熱心だ」
「……」
「教えてやろうか?」
「いりません」
「教えてやるって、手取り足取り」
「ちょっ」
ガタン! と、ロッカーの鉄の扉が派手な音を立てて、そのことに焦ってしまう。こんなでかい音を立てたら、誰か来るかもしれないって。
「ツナギって、エロいよな」
「っ!」
身体を押し付けられて、密着したくないと後ろに下がればロッカーが逃げ場を塞ぐ。
「男は逃げられると興奮するって、天見だって男なんだわかるだろ?」
「っ」
分厚いあの手に腰を掴まれて、身動きが取れない。
「……興奮する」
「興奮、しないでくださいっ!」
せめて顔だけでもって背けて、そこを狙われた。差し出すように晒してしまった首筋に、鴨井がにやりと笑い、唇を――。
「あ、真紀」
けど、その唇を思いっきりビンタされた。
鴨井の唇は、飛んできた真紀の掌とキス、していた。
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