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第49話 掌に口付けを

「今、鴨井さんがこういう行為に及んでいるということは、業務時間外と認識しました! もしも業務時間内であるのなら、この行為自体が問題ですので、ご報告させていただきます。ですが、業務時間、外! であれば、私も業務時間、外! として、対応します!」  真紀が、「外(がい)」の部分をやたらと強調しながら、そして、生真面目な真紀らしく、鴨井の邪魔をした。俺にキスをしようとしたのか、顔を近づけた鴨居の顔面の前に立ちはだかるように、行く手を阻んだ大きな掌。鴨井はその掌にぶちゅっとキスをする羽目になって、シチサン眼鏡の真紀が見せたきっぱりとした態度に目を丸くしている。 「彼は、私と交際をしています!」 「……」 「なので、そういう邪な行為は謹んでください!」 「……」 「以上です!」  真紀はかまわず言いたいことだけ言うと、そのまま俺の手を掴んでしまう。鴨井は、終始、ぽかんとしたままだった。 「失礼します!」  渡さないって、その繋いだ手が言ってるみたいに強くてさ。 「……あっ! お疲れ様でした!」  言い忘れたと、慌てて引き返し、ちゃんと挨拶をしてから退社する生真面目な真紀が見せる、強引で、なりふりかまわないところにさ、ガキみたいにドキドキした。って、ドキドキしてる場合じゃないんだけど。襲われかかってるところを真紀に、恋人に目撃されたんだ。俺をさらったナイトみたいな後姿に見惚れてる場合じゃないけどさ。 「あ、あの、真紀っ!」 「……」 「さっきのは! その」 「……誉さん」 「違うんだ。向こうは軽いノリだったし」 「……誉さん」 「真紀、だから」 「トイレ、寄ってもいいですか?」  ピタリと止まって、振り返った真紀はげっそりした顔をしていた。あまりにひどい面で、どうぞどうぞと言った途端に、すぐそこにあるトイレに駆け込んでしまう。  吐きそうだった? 体調、悪かったのか? 寝不足とか? 「真紀? 大丈夫か?」  吐いてるのかと思った。 「真紀?」  でも、聞こえてきたのは水音だけ。 「何してんの?」 「潔癖症とかじゃないですけど、でも、鴨井さんの口が触ったとか、鳥肌がががが!」  が、って何回連呼して絶叫してんの? 「……っぷ」 「笑い事じゃないですよ! 職場で邪なことを部下にしようとするけしらかん人の口触って、喜ばしいわけないじゃないですかっ!」  急いで、一生懸命に俺を守ってくれた手を洗っている。じゃぶじゃぶ、じゃぶって、石鹸で泡だらけにして、流して……まだ、洗うのか? 感覚が残ってる? 一秒二秒、じっとしたかと思ったら、もう一回手を洗おうとした。 「……ありがと」 「誉、さ……ん」  だから、今度は俺が洗ってやった。ほら、俺も仕事上がりだったし。ちょうどいいだろ。一緒くたに洗っちまえばいい。水が節約できて、時間も短縮できる。 「嬉しかった」 「……」 「けど、別に、俺はなびくことはないから安心して」  まさか、俺が恋人にこういうことを言うなんてな。レンがいたら、またピーナッツの皮を投げつけてきそうだ。話したら、はいはい惚気ごちそうさまですって、おっさんみたいな声で言われるな。 「俺は、焦りました」 「……」 「焦ったんです。取られたくなくて」 「真紀」  ここが、職場じゃなければよかったのに。そしたらさ。 「すごく、子どもっぽいことを言ってもいいですか?」 「?」  真紀がスーツのポケットから真っ白なハンカチを取り出し、拭いてくれた。 「誉さんに、誰も触って欲しくない、です」 「……」 「ヤキモチって初めてしてるんですが、なんだか、きついものなんですね。あああ! なんだか、まだやな感じがする! もう一回洗ってもいいですか?」  ガキみたいに、ほら、また気持ちが弾んで、はしゃいでる。 「……真紀」 「はい」  真っ直ぐに、真面目に返事をする真紀の綺麗な骨っぽい手を掴んで、トイレの一角、はいってすぐには見つからない壁のところに連れ込んだ。  そして、その掌にキスをした。  鴨井の顔面がぶつかったところに、そっと、口付ける。  ちょっかいかけられた感覚の代わりになるよう、俺の唇の感触で上書きして。トイレの片隅に響く柔らかく小さなリップ音。真紀は薄く頬を色づかせて、そのキスを見つめていた。 「約束する」 「……」 「誰も、俺に触れない。触れていいのは、この手だけ」  今、キスをした、この手だけは俺に触れていいよ。こうして、唇にだって、どこにだって、この手は触れられる。 「俺のこと、真紀だけが好きにしていい」 「っ」  この手だけは俺のことを好きにできる。触って、まさぐって、掻き混ぜて、暴いていいんだ。 「へぇ……」 「……なんすか?」  朝、出勤してすぐ、俺よりも真紀よりも身長もがたいもある鴨井がこちらを覗き込むように、じっと見つめて、意味深な顔でニヤリと笑う。俺は即座に振り返って、警戒心丸出しの顔を向けた。上司に向ける顔じゃないけど、この男の表情も部下へ向けてするものじゃないから。 「いやぁ、けっこう熱血っぽいタイプだったから、これ見よがしのキスマークをつけてくるかと思ったんだけどな」 「……しませんよ」  真紀はしない。  俺のことを大事にしてくれる真紀は、俺の仕事も含めて、丸ごと尊重してくれるから、そういうことはしないんだ。 「ふーん、随分、夢中なわけね」 「……作業するんで」 「あぁ、そうね。なぁ、今夜、暇?」 「はい? あの、昨日のこと忘れましたか?」 「忘れてないさ」  それはよかったと、わざと溜め息混じりに呆れた声で呟いた。怪訝な顔を向けても、鴨井はにこやかに笑っているばかりだ。おかまいなしかよ。そう胸の中で舌打ちをしながらその場を離れる。  職場だし、他のスタッフもいる。チーフが復帰するまでのことだし。俺が昇級すれば一級はまだでも、できる仕事は増えるんだ。 「あ、あのっ、天見さんっ、よかった」  こいつもカミングアウトはしないって言ってたから、離れて仕事しときゃいいだろ。そう思い、作業場を移動したところで、今年の新人が駆け寄ってきた。 「あの、今夜、急なんですが、夜、お時間ありませんか?」 「?」 「鴨井チーフの歓迎会を急遽やることになったんです」  新人が幹事を任されているらしく、業務の合間に、そして主役である鴨井のいない間に出欠確認をしなければと慌てていた。 「臨時でも、チームワーク作りは必要だからって」  振り返ると、だから暇か訊いたんだといわんばかりに、鴨井が笑っていた。

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