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第51話 呪い
「三里……」
それが誰の名前なのか、すぐにわかった。
鴨井の隣にいる、綺麗な男のことだって。
突然の出来事に真紀は言葉をなくしていた。目を見開いて、そのまま立ち尽くしている。真紀と、その三里っていう美人は知り合いで、そして、俺は胸騒ぎがして仕方なかった。
「……真、紀?」
その三里も目を見開いて、そして、少し身構えていた。怖がっているって、感じた。
「え、っと」
怖がっていそうだけれど、でも、その瞳は真紀だけを真っ直ぐに見つめていた。
「あいつ、あんな顔すんだなぁ」
鴨井がそう言って、真紀と三里が話しているのを眺めている。鴨井のセフレで、真紀と何かしら関係のある人物。たしかに、鴨井と話していた印象はレンに近いものがあった。美人で、それなりに男の扱いに慣れていて、遊んでいる感じさえした。
けれど、今、真紀と話している三里は全然違う。俯きがちな頬が薄っすら色づいて、可愛い人だ。初めての――。
「可愛い顔してんなぁ」
「……」
初めての恋に戸惑う人だった。
「……」
けど、あんたの目の前にいる男は、俺の、だよ。初恋、の相手だった? 今でも思ってるのかもしれないけど、でも、たしかに、今、真紀はあんたの男じゃなくて、俺のだ。
「もっと色々こなれた感じがしてたけど。まぁ、そうだよな。誰だって淡い初恋くらいあるか」
なぁ、その男は、俺のだよ。
「……っ」
だから、返して。あんたのじゃないから、早く、俺のところに。
真紀が頭を下げた。そして、三里が両手と小さな頭をブンブン振って、少し身体を屈めながら何かを話す。顔を上げた真紀に笑って、そして、今度は三里が頭を下げた。ふたりはそれから見つめ合って、三里は笑っていたけれど、でも、真紀は笑えずにいた。
「ようやく、終わったか」
鴨井が仕事後の疲れと、アルコールが溜まって重くなった身体でよっこっらせと立ち上がる。
「タイミング悪かったな。俺にも、天見にも。本当は」
「失礼します」
返して。俺の。俺の男なんだから。
「真紀!」
「真紀、あの、ホントごめんね。あんな呪いみたいな言葉」
どうして聞こえたんだろう。焦りすぎて、駆け寄るのが早すぎたんだ。だから、笑えずにいる真紀を追いかけてきた三里のそんな言葉が聞こえてしまって、胸騒ぎがどうしようもなく止まらなくなった。
真紀はにこやかに笑って、一緒に帰ろうと言った。でも、その笑顔が少し硬かったんだ。いつもの柔らかく優しい笑顔じゃなくて、貼り付けたように見えた。
そんなの無理だろ? 何? って、思うだろ? 気になるよ。
――あの人、誰?
だから、そう訊いた。
真紀は困った顔をしたけれど、すぐに普段の顔に戻って、眼鏡を指先で押し上げた。
「水、どうぞ」
話を聞くのなら、外がいいと思ったんだ。なんでだろう。ふたりっきりで聞きたくなかった。何か、気を紛らわすことのできる俺たち以外の何かが、なんでもいいから、間にあるといいなぁって。
「あ、ありがと」
だから、けっこう飲んだから、少し宵を冷ましたいって、ウソをついた。
こんな時間帯、繁華街の一角にちょっとした休憩所みたいに設置された公園にも満たない小さな庭。そこのベンチに深く座り、真紀は足元をじっと見つめた。
俺は、隣に座って、前の歩道を行き交う人を観察しながら待っている。
酔っ払って楽しそうに千鳥足で歩く人、その人を邪魔そうに睨みながら追い越す仕事帰りらしきサラリーマン。スマホを見ながらゆっくりあるく若い女の子。
「……真紀に、初めて会った時はゲロかけられたっけな」
「あの時は……すみません」
「……懐かしいな」
ちょうど、あんなふうに歩道を歩いてたら、向こう側からやってきた真紀にぶつかったんだ。
そんで、トラブル発生により、近くのラブホテルへ。お前はインポかどうか知りたいって言ってた。俺は、それを確かめる手伝いをした。
「…………呪い、って……何?」
「……」
とても不吉で、とても寂しく悲しい響きを持った言葉だ。
「……ごめん。言いたくないなら」
「彼をひどく傷つけたんです」
ベンチに座って、膝に肘をついて、一緒にペットボトルを両手で握り締める真紀は、懺悔をしているかのように項垂れた。
「大学二年の時でした」
三里に出会ったのは。そう呟く声はとても小さくて、向こうを行き交う音に掻き消されそうなのに、なんでこんなにはっきり耳に届くんだろう。
「別の学科の生徒だった三里と、男女混ざった飲み会で隣同士になったんです。三里って、呼ばれていて、俺は、てっきり女性だと思った」
中性的な外見をしていた。レンよりもずっと中性的で、本当にどちらの性別かなんてわからないほど。たぶん、女性だって言われても、ボーイッシュな感じなんだね、で納得してしまうだろう。
「彼、クオーターなんです。故郷と呼べる国が三つ、それで三里。そう笑ってた」
「……」
「酒の席で意気投合して」
痛がるなよ、俺。聞きたかったんだろ? 聞かずに知らないフリができそうにないから、こうして話を、俺が聞きたいって、真紀に言ったんだろ?
「人見知りって、誉さんに前言ったでしょう? 彼もそうだったんです。クオーターだからか、よくそういうプライベートな部分を訊かれることにうんざりしすぎて、人と話すのが苦手なんだって言ってました。だから、彼のそういう部分はあまり訊かなかった」
人見知り同士、少し不器用な者同士、意気投合するのはとても早いだろう。
「そこからはちょくちょく大学内で見かけるようになったんです。声をかけて、また会話が弾んで。それを数回繰り返しているうちに、今度は一緒に、ふたりで飲みに行くようになった」
「……」
「好きって、言われました」
指先が反応してしまう。想像できてしまう。真紀の柔らかく優しい部分に触れたら、誰だって好きになる。もう何度も想像した光景。
「正直、俺はよくわからなかった。好きとか恋愛とかがよくわかっていなくて。けど、わからないけれど、彼といるのは楽しいし、気が楽だから、そんなものかなって。好きと言われて」
「……」
「好きだと、答えました」
真紀がそこで苦笑いを零し、カクンと頭を下げ、足元をしばらく見つめている。もうぬるくなってしまっていそうなペットボトルを握り締めたまま。
「嬉しそうに笑ってた。だから、これでいいんだって、三里が手を伸ばした分、俺も手を伸ばして、キスを」
「……」
「そこで、初めて知ったんです。三里が、男だって」
ペットボトルが、ミシ……と軋んだ音を立てた。
「抱き締めて、その、身体の反応でわかったんです」
名前が女性にもある名前だった。学科が違っていて、普段は会うこのとない人だった。三里の容姿からじゃ性別が判断できなかった。彼は、ゲイで、真紀に抱かれたかった。
「驚いて、俺はその時、三里から引いてしまったんです」
呪いって、言ってたっけ。
「女性じゃないって気がついて、かろうじて突き飛ばさなかったけれど、寄り添ってくれた肩に添えた手に力を込めてしまった。ホント、失礼ですよね。申し訳ないことをしました」
真紀が身体を強張らせている。
「すぐに、謝罪しようと思いました。性別を判断し間違えたこと、驚いてしまったこと、キスを……拒否してしまったこと。謝ろうと思ったんです。でも、追いかけようとして、階段で転んで、怪我を」
そこで、真紀がこめかみを指で撫でた。眼鏡をしていると隠れてわかりにくくなるけれど、ちょうど眉間の辺りにある傷跡。けっこう深くざっくり切ったんだろうって、そのくっきり残る傷でわかる。
「階段から落ちた時にその当時していた眼鏡が壊れて刺さって、けっこうな怪我で、そのせいだと思うんですが、視力がガタンと落ちたんです。それで目がかなり悪くなってしまって、眼鏡がないとどうにもならないんです。コンタクトはなぜかすると酔ってしまって」
顔をあげた真紀はひどく悲しそうだった。眼鏡を外し、剥きだしになった眉間の辺りにぎゅっと力を入れる。
「怪我も良くなって大学に行ったら、三里が俺と距離を取るようになってた。あの時、傷つけたせいだって思った。でも、それだけじゃなかった。俺が言ってたのが耳に入ってしまったんです」
好きな女性がいると、同じ学科の生徒に話していたのを、三里が聞いてしまった。
「それをどっちに捉えたんだよ」
「……どっち、でしょうね」
好きな女性がいるのに、三里にも好きだと言ったと捉えたのか、三里を女性だと思って好きになったけれど、男性だとわかったらもう拒絶なのか。どっちにしても、三里にしてみたら、とても悲しく酷い話だっただろうって、真紀がシチサンの髪をくしゃりと掌で掻き乱す。
「それでも弁解したくて、謝罪したくて追いかけました。そして、言われたんです」
「……」
「ひどいって」
中性的で柔らかく高い声が放ったその言葉。
「それから、ずっと……」
その言葉が、真紀に呪いをかけたんだ。誰とも恋愛できなくなる、とても痛い呪いの言葉。
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