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第54話 痛いの嫌いなの

 三里が来ていた。店舗駐車場の端で真紀とふたりで立って、何かを話していた。  この前、偶然の再会の時にはとても強張った表情をしていた真紀が、なぜかその時は柔らかく優しく笑っていた。  あの時は、真紀のことを返して欲しくて駆け寄った。そしたら、何の話をしていたのか聞くことができたけれど、今日は駆け寄れなかったからわからない。何を笑い合いながら話しているのか、ここからじゃ、ちっとも聞こえない。  でも、俺はそこから一歩も動けなかった。 「……」  三里は綺麗でさ、美人で、可愛くて、華奢で、昔の自分みたいだなぁって。いや、昔の俺、以上、だ。  俺は卑怯者で、怖がりで、痛いのが大嫌い。 「っ」  だから、痛いことは避けてしまいたい。だから、知らないふりをしてたけど、こんなの時間の問題じゃんか。  ――誰も知らず、初めての恋愛、たったの一つ、たった一人、それだけで恋人はお前だけだと決めた男と、たくさんの相手がいた中から、たった一人、お前がいいと思った男、どっちのほうが、お前は安心するよ?  あんたなんて大嫌いだ。  そんなの俺が一番よくわかってるけど、考えないようにしてたんだろ。考えてしまえば、簡単に答えが出てしまうから。  誰よりも真紀がよかった俺と  俺しか知らない真紀。 「っ」  本当に? 本当にそれでいいのか?  ――好きです。誉さん。  うん。知ってる。今、俺のことを好きでいてくれる。でも、お前は俺しか知らないだろ? 他を知らないんだから、俺がお前の最善とは限らないじゃんか。誰よりもお前のことが好きだっていう俺と、俺だけが好きだっていう真紀とじゃさ、違うんだよ。選択肢の幅が決定的に違う。  百あるものの中から唯一を見つけるのと、それしか最初から持ってなかったものとじゃ、なんもかんもが違うんだ。キスもセックスも違うんだよ。好きって言葉も違ってる。  それだけでも不安なのに。それが何より不安だったから、真紀がまわりを見ないで俺だけを見ててくれることを願ってたのに。 「っ、ふざけんなっ」  なんで、こんな余計なこと済んだ。鴨井、あんたのせいだ。 「っ」  その真紀に、なんで選択肢をやるの? 俺か、それともずっと心の中で気にかけていた初恋か、よくそんなわかりきった残酷な二択。そうだよ。わかりきってんじゃん。  真紀は気がついてないんだろうか。  こめかみの傷を意識した時、痛そうだけれど、すごく切ない顔をするんだってこと。酒に失敗したことがあると少しだけ話してくれた時、泣きそうな顔をしていたこと。 「インポなんかじゃなかったじゃん」  女性だから反応しなかったわけじゃない。大事な人を傷つけた自分のことをずっと戒めていただけ。シチサン眼鏡、頭ガッチガチに固めて、遊びもせずにただ真面目に生きてきたのはあの日、好きだった子を泣かせたことを反省し続けるため。  真紀の中にはずっと、三里がいた。  ずっと、ずっと、中に三里がいたから、誰のことも好きになんてならなかったんだ。誰も、そこに入れなかっただけだった。  このコンビ二を右に曲がって、二つ並んだ小さなアパート、そのあとに一軒家が三つ、そんで、真紀のいる単身者用のアパート。いつも使っているコインパーキングはここを通り過ぎてすぐのところにある。  でも、今日はそこを使わなくて大丈夫。  ――ピンポーン  今日はすぐ済む話だから。 「はーい。! 誉さんっ」  びっくりされただけで、心臓がえぐられたみたいに痛くなる。誰か、別の奴だと思った? 三里、とか?  お前は真面目だから、三里と付き合うのなら、きっと別れてからにすると思う。でも、真面目だから、それも考え込むのかな。メッセージを寄越したほうが先に会話を終わらせてしまうのはいかがなものか、なんてこと真剣に思い悩みそうだもんな。 「ごめんな。突然」 「いえいえ! 大歓迎です。試験勉強してると思ったから。来週でしたもんね。俺、邪魔にはなりたくないから、ちゃんと」 「うん……」  そう、マジでもう試験は間近に迫ってきてる。それで昇級合格したら、一級整備士を目指して、また猛勉強しようと思ってるんだ。車いじるのすごい好きだからさ、着々、自分のやりたい仕事でのステップアップを図っている最中。 「お茶でも! 是非!」 「……」  そう、この仕事が好きだよ。手が真っ黒になったっていいよ。だから、恋愛なんて、してる暇ないんだわ。 「いや、いいよ。すぐ済む話だし。この後、また戻って試験勉強だし」  だから、恋愛は邪魔なんだ。どうせ、くっついて離れて、ただそれだけのもののために、一生もんの資格取得を邪魔されたくない。  だから、三里のとこ、いっていいよ。  邪魔、だからさ。 「あのさ、俺、昇級試験、本当に合格したいんだ。これに受かれば、そのまま一級整備士の方にも挑戦するつもり」 「はい。難しい試験ですよね。一級。でも、誉さんなら大丈夫! 俺、応援」 「ありがと。だからさ、悪いんだけど」  真紀の初めてのセックスは俺。キスも俺。デートも俺。あと、あの過去の話を聞く限りじゃ、好きだと告白したのも俺へが初めて。全部、俺が真紀の初めてをもらった。だから、それももらう。 「別れたい」 「…………ぇ?」 「試験、あるし、色々集中したいから、別れたい」 「……」  真紀の、初めての失恋も。 「そんだけ」  俺に、ちょうだい? 「そんじゃ。おやすみ」  真紀の初めては全部もらう。せめて、そんくらいの独り占めをしたっていいだろ? このあとあるだろう本物の恋愛っていうやつを三里は真紀からもらえるんだから。いや、もらうとかじゃないのか。ふたりでするのか。 「……すげ、痛い」  あぁ、そっか。  失恋は、本当に独り占めできるかもな。  ずっと恋人のままでいるのなら、失恋だけは三里は一生もらえないことだ。 「っ」  痛いの、嫌いなのに。息ができないくらいに痛い。  怖いのは好きじゃないのに、今さっき、真紀の顔を見て話すのが怖くて仕方なかった。けど、もうあんなふうに近くで見ることはないだろうから、ちゃんと見た。  卑怯者だから、あと、もう少しくらい別れの時を先送りにしたかったけれど、それは、さすがに無理そうで、ちょっと悔しい。  気がついたら、車を適当に走らせていた。ただ、走りながら、今までしてきた恋愛や、セックスの中に、真紀とのことが、一番色濃く残ってる真紀とした全部が、埋もれて、他と同じように「過去の出来事」に早くなってしまえばいいって、そう思った。 『ねぇ、あのあと、どうよ? シチサン童貞君とは。最近、ちいいっとも飲みに来ないじゃん。ラブラブなんでしょ?』 「んー……別れたよ」  やっぱ、技術系の英単語はちっとも頭に入ってこない。真紀の声だと聞き取りやすいし、なんか覚えやすかったのに、後半、ガッタガタだな。俺の記憶力。 『えっ? 今、なんつった?』 「んー、別れた、今、たった今」  言ってしまった。別れてしまった。三里んとこに行ってもいいよって、手を払ってしまった。だってそのほうがきっとお互いのためだろ。俺の仕事のレベルアップに、真紀の本物の恋愛に、俺らはきっとお互いに邪魔にしかならないんだから。 『ちょ! ねぇ、なんでっ』 「わり! 一生のお願い」  車、触ったら少しは落ち着くかな。そしたら、時間があっという間にすぎてくれるのかな。  真紀のこと、しばらくは思い出さずにいれるかな。俺は、ちゃんと、できた? 「うちに、帰れないんだ……泊めてくんねぇ?」  バイバイ、真紀……って。

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