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第55話 誇れる指先

「ひどい顔……」  レンが玄関開けてすぐ、そんな失礼なことを言った。そ? そんなにひどい顔してる? 初めて言われたかもな。レンと親しくなって何度か男と別れたことはあったけど、そんなこと一度も言われたことなかったよ。振ったことも、振られたことも、色々あったけどさ。 「何してんの……そんな顔するんだったら、別れなきゃいいのに」 「っ」  だって、仕方ないだろ。 「すごく楽しそうで素敵だったのに……」 「っ」 「ほら、ハグしてあげるから」  待ってられなかったんだ。いつか言われるんだって思いながらなんて無理だった。あいつからバイバイって言われたら、痛くて仕方なくなるから、無理だったんだ。 「……バカじゃないの? こんなに泣くくらい好きなくせに」  俺は、怖がりで、痛いのが嫌いだから、自分から手を離すしかできそうになかったんだ。 「歯ブラシ、歯ブラシ、あ、あったあった。よかったぁ。最近、男が来てなかったから、ストックないかと思った。ほら、使っていいよ」 「……」 「服は……はい、これね。サイズ、大丈夫だと思う」 「……レンって、なんか色々すごいな」 「そ?」  すっぴんに髪の毛ノーセット。普段だって化粧してるわけじゃないけど、風呂上がり、肩の力を全部抜いたレンは初めて見たから少し驚いた。なんか普通に男らしい感じなんだな。あと――。 「あ、今、眉毛ないって思ったでしょ?」 「……」 「仕方ないじゃん!すごおおおい下がり眉なんだもん。自毛なんて、眉頭くらいしかないわ。って、おい、笑うなっ」  だって、笑うだろ。レンってどこか完璧な気がしてた。けっこうな高給取り商社マン、駅直結のマンションに一人暮らしっていうだけでも、羨まれるだろうけど、それに加えて容姿も淡麗、美人ネコとして男なんて途絶えたことがなかったのに。そんなレンのすっぴんが、まろ眉だなんてさ。 「でも、ようやく笑った」 「……レン」 「このまろ眉もこんな時に役立つのか。良いことをひとつ知ったわ」  小さな鍋で何かを煮立てていた。クスクス笑いながら、それを耐熱のグラスに注ぐ。牛乳だ。あっためた牛乳の柔らかくほわりと穏やかな香りが立ち込めた。 「……ダメに、なっちゃったの?」  そして、その中に、コーヒーリキュールを少し多めに入れてくれる。 「ダメに、しちゃったの?」  どうぞ、とテーブルの上に置かれた甘くて苦いカルーアミルク。 「ラブラブだったのに」 「うん……」 「ちゃんと話した……わけじゃないよね。双方納得、してるんだったら、うちに来ないだろうし」 「……ごめん」 「別れたくなったの?」  わからない。別れたくなんてないけれど、別れようと言われる日が怖くなった。 「……ごめん」 「ありきたりだけれど、泣くくらいなら別れなきゃいいのに」  違うんだ。これ以上、泣きたくないから、今以上に悲しくなりたくないから、だから、ここで終わりを選んだんだ。わかっているのは、真紀のことが好きだってこと。こんなに好きになったことは今まで、なかったこと。それと――。 「試験、なんでしょ? 整備士さんの。いいよ。落ち着くまで、ここにいて」  痛いのは、すごく苦手なのに、もうすでに痛くて痛くてたまらないってこと。 「どうだ? 試験勉強、捗ってるか?」 「あ、鴨井さん……」 「四日後だろ?」  そうだ。四日後には昇級試験がある。ってことは、まだ、一昨日なんだなぁって、それしか経ってないんだなぁって驚いていた。 「大丈夫か?」 「平気です。オーバーホール見学させてもらったし」 「そっちじゃねぇよ」  別れた翌日、俺の表情から、鴨井が、全部を察知した。そして、俺を真紀から遠ざけてくれるから、俺は一度だって真紀の顔を見ずにいられてしまう。 「……平気、です」  会いたい、顔が見たい、触れたい、今、何してんの? あの「バイバイ」に納得してくれたのか? こっちはさ、納得したのは俺の脳みそだけで、身体も気持ちもちっとも言うことをきいてくれやしない。真紀が不足してるって、俺の内側ですぐにでも暴れだしそうだよ。 「天見さーん! すんません」 「ああ! 悪いな。俺が行く」  整備工場の入り口で、新人に名前を呼ばれてビクンと飛び上がった。でも、俺の行く手を鴨井の大きな手が遮る。もうこの数日間、ああして俺が誰かと話す機会を全て奪ってくれるんだ。あの扉の向こうに真紀がいるのかもしれない。真紀じゃなくて他の営業かもしれないけれど、それでも、鴨井がとりついでくれる。  輪島さんがここにいたら、昇級試験に集中しろ、と叱られるだろう。何やってんだと呆れられるかもしれない。  車の整備士は、ドライバーの、そして周囲の人間の命を守る仕事だと、輪島さんは誇りを持って仕事をしている人だから。 「なんだなんだ、そんな顔して」 「!」 「もしかして、お前も腰、やっちまったか?」 「……チーフ」  そこにいたのは輪島チーフだった。腰にコルセットをして、無骨な、オイルの染み込んだ手で松葉杖をつきながら、そこに立っていた。 「勉強しながらの仕事は大変だろ? そんな大変な時期に腰のせいで、仕事休んでて申し訳ないな」 「あ、いえっ、あのっ大丈夫です」  もう、俺には仕事しかない。それだけで充分だ。元から、車が好きなんだから。その仕事で今成果だそうって思ってる時に恋愛だなんだなんて、言ってられない。集中しないといけない。こっちを、仕事をちゃんと頑張らないといけないんだ。恋愛はいつか終わる。けど、仕事は終わらない。それなら優先させるべきはどっち? なんて考えるまでもないだろ。 「……すんません。鴨井さん、しばらく天見、休憩させてもいいですか?」  今、現場を仕切っているのは鴨井だから。チーフは丁寧に頭を下げると、松葉杖で痛いはずなのに、コンクリートの床を少し楽しげに歩きながら、俺を奥の休憩室に呼んでくれた。 「はぁ、やっぱり、ここの匂いはいいなぁ」 「……整備工場の、ですか」 「あぁ、臭くて、手は真っ黒になるけどな」  どっかりとベンチに座り、目を閉じて、小さく笑ってる。臭いのか良い匂いなのか、どっちなんすかって言い返すと、また笑って、けど、少し腰に響いたのか、「イテテ」と呟いた。 「子どもにな、昔、パパの手は汚いから好きじゃないと言われたことがある」  オイルが染み込んで取れないから、洗っても洗っても、毎日の仕事だ。ひっきりなしに洗う暇なんてない。だから、どうしたって黒ずんでしまう。 「悲しかったっけな」 「……」 「その頃に、でっかいポカミスしてな。あれは、今思えば、ゾッとする。大事にならなくてよかったけどな」 「……チーフが、ですか?」 「あぁ。お前が入社するちょっと前だ」  チーフほど仕事が正確で丁寧な人はいないと思っていた。お客への整備説明から、迅速な対応、ミスひとつない作業。全部が完璧だと思ってた。 「でも、いつだったか。嫁さんが風邪引いてな。うどん、作ったんだ。食べさせようと思って」  そして、チーフが自分の手をじっと見つめた。黒ずんだ指先をぎゅっと握りこぶしでしまって、開いて、また、しまって。 「嫁さんは普通に食べたけど、子どもは食べないかもしれないと、コンビニで弁当を買っておいたんだ」  手を汚いと言われてしまったから。その手で作った物は食べないかもしれないと、そう考えて。部下にもそうだ、いつだって、相手のことをすごく思ってくれる。 「けど、子どもはうどんを食べてくれた。美味い美味いって言いながら。あれは嬉しかったなぁ。嬉しくて、自分が変わりに食べたコンビニ弁当すらご馳走に思えた。そのちょっと後に、そん時の上司が昇級試験を受けないかって言ってくれたんだ」 「……」 「でかいポカミスから一ヶ月くらいの頃の話だ。で、それに受かって、一級整備士の試験も受かった」 「……そんな」  ほぼポカミス直後の試験なんて、一般的には。 「言われたよ。上司にプライベートが上手くいってる奴は大概仕事も上手くいくって。」 「……」 「最近の天見は楽しそうだったからな」 「……」 「これなら、きっと良い一級整備士になるって思ったんだ」  ずっと、黒ずんだ指先だけは好きになれなかった。この仕事は好きだったけれど、指先だけは、好きじゃなかったんだ。 「知ってたか? 何かを誇れるのは、自分だけじゃダメなんだ。自分と、その自分の大事な人が、お前のことを、お前がしようとしていることを大事にしてくれるからこそ、誇れるんだ」  真紀は、そんな俺の指も好きだって、言ってくれた。それがすごく嬉しかったんだ。 「って、悪いな。俺はあんまり上手に言えないんだよ。嫁さんにもいっつも言葉が足りないって怒られるんだわ」  それがとても嬉しくて、俺はこの仕事をもっともっと、好きになれた。 「……いえ、すごい勉強になりました」  でも、もう、きっと――。

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