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第56話 手遅れだった

 黒ずんだ指先を俺は好きじゃなかったけれど、真紀は好きだと言ってくれた。  そしたら、なぜか、俺も自分の指の黒ずみを、「頑張ってんなぁ」って眺められるようになった。機械油専用のとってつけたようなオレンジの香りがする石鹸のせいでかさついて、ひび割れしやすくなった指を溜め息じゃなく、ふふん、って鼻を鳴らして見つめられるようになったのは、真紀が言ってくれたからだ。  心から、自分の仕事を、自分のことを誇れるようになったのは、真紀が――。 「あ、ねぇ、誉、今日って、試験だったよね?」 「あーうん」  試験が終わったら、うちに戻らないと、だよな。 「試験、頑張ってね」 「うん。ありがと」  ――貴方の、好きなものを知りたいから。  笑いながら一緒に車の博物館を巡るあいつが俺の指先によくキスをしてくれたっけ。この指先に。  だから、すごく好きになれた。  けど、もう、きっと遅い。 「えー、それでは、次に整備実技、第一項目を行います。制限時間は……」  あいつの手を離してしまったから、もう手遅れだ。三里ところへと俺が背中を押してしまったから、戸惑いながらも、きっと、思い出としてしまいかけてた初恋の続きをしに行ってしまった。もう、行っちまった。  これで、落ちたら、笑えるな。  試験のために邪魔だからって手放したのに。その試験を落っことしてたら、本当に何やってんだ、だろ。  呆れて、それこそ見限られるかもな。  もうすでに、レンのところに泊まる必要なんてないんじゃないか? だって、最近、仕事してて、鴨井さんが阻止する必要ないなんてないくらい、淡々と作業できてただろ? 「それでは、よーい」  あぁ、本当に呆れられたんだ。もう……。 「初め」  実技は三つの項目別に行われる。採点は最低でもふたり以上の一級整備士がついて行う。今、輪島チーフが不在だから店長と、整備部地区部長も、採点のために来ていた。 「うーん……」  第一項目の実技が終わったあと、決して好感触とは言えない溜め息を地区部長が零す。少し戸惑った部分があったから、ポイントが低そうだった。  落ちる、かもしれない。第一項目が一番重要なのに。 「そうだな……」  地区部長の表情は曇っていた。 「あの地区部長」 「? どうかしたか、鴨居」 「実は、天見は発熱が今朝からありまして。ちょっと、高熱すぎるので、インフルエンザかもしれません。病院へ受診したほうがいいと、判断します」  何、言ってんだ? 発熱なんて、なかった。高熱なんてことも、もちろん、ない。 「体調管理も大事な仕事のひとつだと私のほうからしっかり伝えておきますので。後日、第二項目、第三項目に関しては、来週、復帰予定のチーフと、私、それと店長の三人が試験管ということで」  インフルエンザの疑いなんて、これっぽっちも。 「歩けるか? 天見」 「ぇ、あ……あの」 「大丈夫だ。試験はいつだってできる。インフルだったら、それこそ店舗に蔓延させられないからな」 「あ、あのっ、鴨っ」  腕を引っ張られ、追い出されるように整備工場から連れ去られた。俺は驚いて、何も言えず、慌てるばかり。 「ちょ、鴨井さんっ」 「……そんな面して、合格できるほど整備士の仕事は簡単じゃねぇ。今日の第一はたぶんギリギリだろ。第二、第三で巻き返せよ」 「なっ! なのに、あんなっ」  強引に返されたら、俺の健康管理が疑われるだろ。 「実際、メンタルボロボロだっただろうが」 「!」  何も言い返せなかった。試験を受けながら、ずっと腹の底んとこに大きな重石でもあるみたいに重くてきつくて苦しかった。 「三國は、お前を待ってる」 「……え?」 「ああいうのは一番厄介なんだ」 「……」 「お前のこと、いくらでも、きっとあの男は待ってるよ。何年だろうとな。そういう厄介なのが絡んだ恋愛の横恋慕役はそれこそ面倒だからな」  そんなわけ、そんなわけない。だって、真紀は。 「俺は、辞退するわ」  真紀は、もう。 「あ、すんません。営業部の、三國は今商談中ですか?」 「ちょっ、鴨井さんっ」  あんた、一体何してんだ。なんで、俺をここに、営業部に連れて来るんだ。 「あー、はい、今さっき、三國さん担当のお客様を私が案内……って、あれ? 天見さん?」 「!」  営業部からちょうど出てきたのは、感謝祭の時に手伝ってくれた女性スタッフだった。 「ちょっと体調不良なんで、誰か、親しい奴が送ってくれると助かるんだけど……整備部のほうはまだ忙しくて、仕事が終わらないもんだから」 「それは大変です! あ、そしたら、三國さんが帰ってきたら連絡します! どこかで休んでますか? 体調悪いんじゃ横になりたいですよねっ」  感謝祭にしてもそうだけれど、世話焼きというかとても親切な人なんだろう。鴨井が作ったデタラメな仮病を信じて、あれこれと慌てふためきながら看病してくれようとする。熱もインフルも全くなってない俺は、申し訳なくて急いで大丈夫だからと首を横に振った。 「すぐ来ると思います。今日はお客さんが車検で車を持ってきてくださるだけなので」 「あぁ、それの車検、明日こっちに予約入ってたやつだわ。あ、じゃあ、俺も手伝うよ。おい、天見、お前は更衣室で休んでろ。 「ちょっ」  本当に具合悪そうだったのかもしれない。彼女にしても店長にしても、皆、俺の高熱をひとりとして疑わずに心配までしてくれたから。 「……」  けど、もう遅い、んだ。 「……」  今さら、真紀になんて言うんだよ。やっぱり、付き合いたい、とか? 好きだなんて、今更言ったって、遅い。三里のことがなくたって、きっと、もう。  もう、真紀の中で俺は、思い出になってるかもしれない。 「誉さんっ!」  もう、遅いけど。 「熱がっ」  もう、手遅れだ。 「あるって、今……聞いて……」  もう、別れるのが無理なくらい、好きになった後だった。もう、諦めるには。 「……真紀」 「試験、だったのにって」 「俺……真紀のこと、が……好き」  遅かった。

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