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第61話 ひん剥いたら愛が溢れた

「……なんか、忘れ物した気がしませんか?」 「んー? そ? 俺はしないけど」  電車に揺られながら、真紀がとても難しい顔をして出かける準備をしている間の記憶をなぞって確かめていた。 「平気だって。もし何か忘れても、鍵、スマホ、財布があればどうにかなる」 「……」 「だろ?」  子どもじゃないんだ。別に忘れ物の一つや二つあったって、先生に怒られるわけじゃない。どんまいっつって、買えばいいし、なくても困らないならそのまんまだ。りんきおーへん、頭は柔らかく。 「誉さんのそういうところ、すごく憧れます」 「大袈裟だ。真紀が真面目すぎるだけだって」  シチサンのバリバリに固めてるから、眼鏡で視界を四角く区切るから、頭がガチガチになるんだよ。もっと……。  手を伸ばしかけたけれど、やっぱ、止めた。  シチサンを手でぐしゃぐしゃにして、眼鏡取っ払って、ワイシャツにニットベスト、面白みのないストレートシルエットのスラックス、そのベストをひん剥いて、シャツのボタン上二つ、外せばさ。 「誉さん?」  たったそれだけのことで真紀はきっとゾクゾクするほど良い男になるよ。 「んーん」  けど、この男をひん剥いていいのは俺だけだからさ。 「なんでもない」  やっぱ、隠しておくことにした。その洒落っ気ゼロのニットベストで逞しい胸板を隠して、ゾクゾクする骨っぽい首筋はワイシャツで隠してしまおう。それ以上肌蹴けさせずに留めておこう。 「?」 「なんでもなーい」  笑ってごまかすと真紀が「なんなんだろう?」と不思議そうに首を傾げていた。 「それでは、えー、ご挨拶役を賜りました。私、三國真紀が恐悦しご」 「もおおお、平気だよ! 三國! 早く、挨拶」  まるで結婚式のスピーチみたいにガチガチな挨拶の始めをポッキリと三里がへし折り、可憐な笑顔でシャンパングラスを掲げた。 「それでは! 話したかったのですが……天見誉様の昇級試験合格を祝して」  乾杯、そんな掛け声が男ばっかりの個室に響き渡った。メンバーは俺、真紀、レン、それと鴨井、三里っていう、なんともおかしなメンツ。そして、このメンツだけれどゲイバーではなく一般的な居酒屋にした。完全個室でのんびりっていうのもたまにはいいかなって。それに、酔っ払って、真紀がまた眼鏡を落っことした時、ちょうど美人ネコがそんな真紀をさらわないとは限らないからさ。  けど、男ばっかりにしてはむさくるしさがないなぁって。  これが鴨井に輪島チーフ、それから店長辺りだったら、げっそりするほどむさくるしくて、個室なんて入ってられなさそうだけれど。レンと三里がいるから、緩和されて……。 「へー商社にお勤めなんですか?」 「ふーん、アパレル関係? いそおおお! すっごいいる感じ」  緩和され……てんのかな。ネコ同士の縄張り争いみたいなのがやや始まりそうで、ある意味緊迫感で息苦しいんだけど。 「いやぁ……」  なんだ、そのいやぁって、鴨井、鼻の下伸びすぎだろ。そもそもあんたの取り合いをレンと三里はしているわけじゃないんだけど。 「誉さん、何か食べたいものありますか? 今日は主役なんだからたくさん食べてください」  真紀は真紀でマイペースに、司会進行役を頑張ってた。 「お疲れ様でした」 「ありがと」  そう、社内のだけれど、昇級試験に合格したんだ。実技もばっちり。そのお祝いの席を設けてくれた。 「次は一級整備士ですね!」  シチサン眼鏡、ワイシャツにベスト、生真面目な真紀が嬉しそうに顔を綻ばせている。 「ありがと」 「へぇ、もう一級挑戦してみるのか?」 「はい。できたら」 「おーおー、頑張るなぁ」  鴨井は明後日、本来の店舗に戻ることになっている。チーフ、輪島チーフの腰の状況がもうかなり改善されたから、本格的にチーフとして現場復帰をする。これで一級整備士として激務が続いただろう副チーフもほっとしたはずだ。けど、今度はここに俺が加わって、一級整備士が三人、になったらいいなぁって。 「頑張りますよ」 「お前、見た目と違って、車いじるの好きだよなぁ。手、真っ黒になるだろ? そういや、この前は鼻先んとこ黒くしてたっけな」  あった。そうそう、ついこの前、すっごい忙しくて、作業時間は分刻み。もう目まぐるしかった日に時間通りに進めらずに、めちゃくちゃ急いでたんだ。  ――鼻先、黒くなってますよ?  帰り間際までずっと忙しくてさ、気がつかなかったんだ。それを真紀がハンカチで拭いてくれて、その鼻先にキスをした。バカみたいにデレデレの顔をして、バカになりそうなくらいに甘やかされてる。 「来月だっけ? 俺、手伝いに行ってやろうか? 引っ越し」  こんな甘やかされる毎日が、来月から一つ屋根の下でずっと続くなんて、俺、そのうち溶けるかもしれない。 「大丈夫ですよ。俺、力はけっこうあるんで」 「……まぁな、けど、三國はなぁ」  鴨井が俺の隣に座る真紀をチラリと見て、ちょっと煽るようにわずかに微笑む。もう別に俺を抱きたいとかどうのとかじゃなくて、単純に真紀のことをからかって楽しんでるんだよ。真紀が、ほら、ムキになるから。 「俺も! かなり! 力持ちなんです!」 「ほー」 「誉さんのこと軽々持ち上げられちゃいますから! ね! 誉さん! 昨日、抱え上げましたもんねっ!」 「ちょっ! おまっ! バカッ!」  何を言い出すんだと慌ててその口を掌で覆った。大の大人が、しかも男が、なんで抱え上げられるんだよ。どういうシチュだよ。 「ふご、ふごご、ふご、ふご」  駅弁、しました。とかいらないから! 力を込めて真紀の手をもう一度しっかりと塞ぐ。 「らっぶらぶぅ」 「だからっ! あの、三里さんっ」  微妙な距離ではある。俺と三里さん。だって、こんなに綺麗で……と、言ったところで真紀は全力で俺を褒めるだけだから、言わないけれど。でも、彼は綺麗で可愛い人だと思うよ。それに、もうセフレ作って遊ぶの止めたんだ、なんて俺らを見ながら微笑まれたら、多少は胸んとこがざわつくだろ? 「だから! あんたたちのその」 「わかったって、レン! お前だって、彼氏できたじゃん」  にやりと笑って、今度はレンが鴨井に砂糖と蜂蜜チョコレートに、あと、なんだっけ。とにかく三温糖を混ぜたような甘い惚気を語ってた。 「なんだ、俺だけが現状維持かよ」  それはそれで、あんたの場合は楽しんでそうだから。 「あれ? お前、俺が教えてやったハンドソープ使ってないんか?」 「え? あ、あぁ」 「黒いの取れるって教えただろ?」 「……」  真紀の口元を塞いでいた手を見て、鴨井がなんで使わないんだと不思議そうな顔をしていた。  そうだな。真紀がいなかったら、俺はそのハンドソープを一目散で買い込んでたと思うよ。 「……いいんです」  好きな仕事に就いた――でも、ってずっと心のどこかが落ち込んでいたけれど。今は、もう気にならなくなった。 「好きなんで、この仕事」  この黒くなった指先含めて、俺を愛してくれる人がいるからさ。 「……誉さん」 「な、真紀、俺やっぱ、肉いっぱい食べていい?」 「どうぞどうぞ。から揚げがいいですか? ハンバーグ? あ、骨付きから揚げも」  ガキかよ。 「んーどれにすっか」  でも、ガキみたいにこの恋にはしゃいでるし、から揚げもハンバーグも骨付き肉も大好きだよ。 「そうだなぁ、もっとよく見せて。わかんねぇ」 「? はい、どうぞ」 「あ、光で反射してよく見えないんだ。ちょ、わり、立てて」 「? はい、ど……っ」  びっくりした? うん。すげぇびっくりした顔してた。メニューで作った仮の衝立に隠れて、皆の前でキスをした俺にびっくりして、鳩が大砲食らったような顔をしてた。大満足の鳩顔。 「激甘かよっ!」  そうレンにも鴨井にも突っ込まれつつ、俺は酔った勢いでケラケラ笑っていた。 「楽しかったなぁ」 「はい。って、ちょっと、ちゃんと歩いてください」 「酔っ払って眼鏡落っことして、知らない奴にゲロぶっかけた男にとやかく言われたくないっつうの」 「その節は……」  ふわふわする。 「ほら。あとちょっとで部屋ですから」 「はーい」  クラクラする。 「なぁ、真紀」 「はい?」  もう良いかな。もう人もまばらになってきたから。そうじゃないと見せられないだろ? 真紀がすごいセクシーな男になる瞬間なんてさ。 「真紀」 「はい? 髪、変ですか?」 「んーん」  俺だけが見ていい、特別。俺が独り占めするんだ、ひん剥いて、色気剥き出しになったお前は。 「そんな顔、道端でしないで」 「ンー……」 「襲いたくなる」  いいよ。襲って。俺のことひん剥いて、抱いて、愛していいのはお前だけだから、いいよ。いくらでも、どーぞ。 「早く、一緒に住みたい」 「……俺もです」 「すっごい好き」 「俺も、です」 「なぁ、どんくらい、俺のこと、好き?」  答えは舌にしてもらった。首を引き寄せて、甘えて唇を開いて差し込まれる舌に答えをもらいながら、あとちょっとで自宅だっつうのに、甘い甘いキスをどっちも止められなくて、しばらくそこで遊んでいた。  もうこれから、きっと、ずっと一緒にいられるのに。  お互いから溢れた熱をずっと、ずっと、そこで交換し合って混ぜあっていた。

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