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夏だ、海だ、青……編 4 砂浜の恋人
車から降りただけで、あつっ……って呟きたくなる暑さに驚きながら、宿のフロントを訪れて、ホッとしたところだった。
「えっ! 海入れないんですか?」
宿は二人でネットで探していた時の写真よりは少し古ぼけてはいたけれど、目印になる提灯の明かりが柔らかくフロントの休憩所を照らしていて、落ち着いた雰囲気の旅館だった。
機械油の匂いに慣れた鼻には珍しくて、とても印象的に感じる木の香り。でも自然でとても心地いいなぁって、ゆったりしかけたところで、真紀の驚いた声がフロントに響いた。
チェックインの手続きをしてくれていた。
「本当に申し訳ありません。この時期はクラゲが多くなっては来るんですけど、今年はものすごいらしくて」
被害者続出らしい。
どうりでこの宿に辿り着くまでに見かけた海水浴場が閑散としてたわけだ。人はいたけれど、泳いでる人はいなかった。九月にそろそろなるところ。確かに海水浴客は減ってはくるだろうけど、それでも気温的にはかなり高くて、海水浴だってまだまだ余裕でできるような陽気。
むしろ水浴びでもしてないとやってられないし、学生にしてみたら、まだまだこんなに暑いのに、もう夏休みを終わらせるなんて、って言いたくなるような猛暑日が続いてるけど。
「本当に申し訳ないです」
クラゲはやる気満々らしい。異常気象の影響なのか、今年は満員電車みたいにクラゲの大発生が起きてしまって、観光業界的にかなり困っているみたいだった。
フロントの女性スタッフはとても申し訳ないと悲しそうに眉を八の字にして、深く頭を下げた。
「っぷ」
思わず笑った。
もちろん笑ったのはその女性スタッフにじゃない。
彼女のせいじゃないし、クラゲだって別に意地悪をするために大発生したわけじゃない。
けど、振り返った真紀はフロントの女性スタッフよりももっと哀しそうに眉を八の字にして、クラゲよりも脱力してぐったりとして、つい、笑った。
「まぁ、よかったじゃん」
「……うぅ」
そんな半泣きにならなくたっていいのにって少し笑って、ちらほらと貝殻を置いた砂地を撫でるように押し寄せる波をパシャパシャと足で掻き乱した。
波が足の甲を滑っていく心地良さと、引いていく時に足の裏の砂が海の方へと吸い込まれていく時のくすぐったさ。忙しなくて、リズミカルで、ここのところ忙しくてヘトヘトになっていた気持ちがふわりと浮かぶクラゲみたいにゆったりとしてくる気がした。
「部屋、すげぇいい感じじゃん。リニューアルした客室、露天風呂付き、部屋食、舟盛りだぞ?」
「はぃぃ」
「っぷは」
海に入れなくなったのは別に旅館のせいじゃないのに、お詫びにと夕食のコースにあったお造り三種盛りを舟盛りに変更してくれた。料金はお造りのコース料理の金額のままで。
「むしろラッキーじゃん」
「?」
本当だったら海水浴客がびっしりここにいたはずだったんだろう海辺には、同じく海水浴ができなかったことを惜しんでいるのかちらほらと人がいた。散歩をしてみたり、小さな子は公園の砂なんて比じゃない、どんな山でもいくらでも作れる無限な砂浜で一生懸命遊んでいる。大きなラブラドールは波飛沫なんてお構いなしに、派手に海水を蹴りながらあっちこっちと楽しそうにはしゃいでいた。
穏やかで、ゆったりとしていて。
「豪華になったんだし飯」
「……」
「それに海水浴も楽しかっただろうけど」
人もあんまいなくて。
「水着」
「?」
ほら、手を繋いだりも、人目を気にしないでいられるから大丈夫。
「見せずに済む」
「誉さんの?」
「じゃなくて、お前の」
そこで不思議そうな顔をするから小さく笑って、手を離して、足先をまた波につけるために少し海の方へと駆け寄った。
「真紀、海入ったらシチサンじゃなくなるし、メガネもしないだろ?」
海に入るのにメガネはできないだろ。危ない。だからメガネなしで、髪、ほら、今、海の風にぴっしりシチサンヘアスタイルが掻き乱されたみたいに、きっと、前髪が乱れて、ほぐれて。
「! あの、僕はっ、誉さん一筋ですよ!」
そこで俺が何を見せずに済んだって言ったのか、察知した真紀がでっかい声でそんなことを叫んだ。
「ばーか、声、でかい」
「誉さん、一筋です!」
わかってるっつうの。
「はいはい。あ、ほら、真紀、すげぇでかい岩場」
浜辺をのんびり誰にも邪魔されず散歩していたら、そのビーチラインの端に巨大な岩場があった。もう海水浴場の端、人も来ないような端の辺り。そこまで手のひらサイズの石すらなかった砂浜に突然出現したゴツゴツとした大きな岩はまるで巨人がそこに置いたみたいに、砂地にあると違和感があった。
「すご、ほら」
少しくらいなら、海に入っても平気だろ。ズボン、濡れたって、そもそもはもっと頭まで海に入る予定だったんだし。
「真紀、こっち」
「誉さん! あのですね! 僕はいつだって、よそ見なんてしませんっ」
まだ言ってるしって笑って、膝下まで海に浸かった。
「ひとす……じ……」
はいはい。
「……綺麗、です」
「? はい?」
照れ臭いからとさっき離した手を今度は真紀が捕まえて、ぎゅっと握った。
「今、波がキラキラしていて、日光が当たって、誉さんもキラキラしていて」
真っ直ぐ俺だけを見つめながら。
「風に揺れる髪も」
手を離さないとぎゅっと握りながら。
「全部、とても綺麗です」
引き寄せて、そっと、キスをくれた。
「すごく綺麗です……」
返事に困るくらい真っ直ぐに、そう言った、真紀の瞳の中にも海で反射した日差しがキラキラと輝いて。
「……誉」
とても綺麗だった。
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