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二.

「新井、その辺にしとけ。副会長の血管切れるぞ」  藤田が仲間内の気安さで苦笑気味に諭すと、言われた本人よりも浅尾の方が反応する。 「失礼なこと言うなよ、藤田。俺はこんな不良タラシ会計のために、貴重な自分の血管を切ることなどない」  あまりと言えばあまりな言い方に、藤田もどうフォローすべきかと一瞬悩んだが、その横で盛大に噴き出したのは新井だ。 「ふ、ふ、不良……タ、タラ……っ!」  笑いすぎてまともに言葉にならない新井に、さすがの二人も呆気に取られる。  校舎に蔓延する腑抜けた空気は、生徒会室にまで侵食していたのだった。  ひとしきり笑った後、新井は仕事を振られる前にとさっさと部屋を出る。  そもそも情報収集のためだけに立ち寄ったのだ。ああも警戒されては浅尾から身になる話が聞けるとも思えない。  新井自身、先ほどの浅尾の言葉を否定するつもりもないし、自覚もあった。  百八十ちょうどの身長と、その甘いマスクは、良くも悪くも人を惹きつける。大した努力をせずとも人並み以上に勉強もスポーツもでき、そこから滲む余裕は、一部の者にとっては魅力のひとつとなる。そのおかげか小学生の頃から、新井の周囲では争奪戦が行われていた。  それは男子高校であるこの学園に来てからも変わらなかった。  もともと性に対しての概念が薄かった新井は、同じ同性の男から言い寄られても、特に嫌悪を感じることもなかったのだ。  かといって誰か一人に熱中することもなく、飽きれば次へ。だが、厄介な愁嘆場を繰り広げる気もなかった新井は、本気にはならないという前提の元に、適当に面白おかしく遊んでいた。  そのおかげで今では自他共に認める立派な尻軽男に成り果てていたが、それについてどうこう考えることもなかった。  ――ここ最近までは。  別に省みているわけではない。ただ、その遊びが最近面倒になっていたのが正直なところで。  男だから、溜まれば抜く。  それだけなのだ。  相手から身体の刺激を受けても、心は動かない。  その空しさは、友人といても払拭されることはなく、小さな切り傷のようにじくじくと新井の心を乱していった。  放課後の校舎の中は、すでに人もまばらだ。  新井はいつの間にか、自分の教室があるA棟三階への階段を上がっていることに気づく。荷物もすでに持っていて、何の用もない。だからといってすぐにUターンする気にもならず、新井はそのままゆっくりと脚を動かした。  階段を上りきり、何となく足を進めると、教室とは反対側の大きな窓が見えた。  外は雨。  だが、わずかに雲の切れ間から差し込む光のせいで、存外に明るい。  新井は窓辺に近づいた。  真下にある渡り廊下の白が、雨に濡れて青みを帯びているのは、反射のせいだろう。  さあさあと降り続く雨の軌跡の向こう側には、隣の棟が見えるだけである。  外が明るいせいで、同じ三階にある特別教室の窓から中を覗うことはできず、特に面白いものもなかった。  それでも、新井の顔はそこから動かない。  雨を眺めているわけでも、隣の校舎を見ているわけでもない。  誰もいない三階の窓辺でたたずむ新井の顔は、おそらく誰にも見せたことのない種類のもの。彫像が彫像であるための美しさを、そのまま体現したかのような新井。  その表情が微かに動いたのは、外がさっと暗くなった時だった。  陽が陰り、鬱屈とした厚い雲がさらに雨足を強める。  その左端で、何かが動く。  つられるようにそれを見た新井の目に、カーテンを引こうと窓辺に寄ったらしい白衣姿の教師が映った。  じわり、と、新井のズボンに入った長方形の紙が熱を持つ。  壁の白が雨でうっすら青みがかり、額縁のような窓枠の向こう側に立つその人物は、新井の拾った写真の中では、赤く、染まっていた――。

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