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八.

「まだだな」  涼は軽く肩を竦めてみせた。  すると綺麗な片眉を器用に上げた生徒が、小さく息をついて笑う。 「先生も頑なだね。……それでも、俺を追い返しはしない」  まるで分かっているような口を利く年下の男に、涼は若干の苛立ちを感じた。煽られているのは分かっている。だから常に冷静に振る舞ってきた。だが、今はそれが揺らいできているのに、涼自身、気づいていた。  邪な感情で近づいてくる輩には慣れているはずなのに、こんな風にまどろっこしいやり方をする人間は初めてで、そのことが涼を不安にさせる。  怖いのではない。  いくら大人と変わらない体型をしていようと、涼は年齢相応に、いや、それ以上に場数を踏んでいる。護身術の真似事もそれなりにやってきた。無理矢理襲われたとしても撃退する手段は持っているのだ。  なのに、この不安はなんだ、と自分へ問いかける。  この生徒が涼に興味を持っていることは確かだろう。でなければ、こんなにも頻繁にここへ来ることはない。だが、名前も語らず、その物理的な距離を縮めることもない。生徒は入口から一歩入った今いる場所から、それ以上中へ進んだことは一度もなかった。  何がしたいんだ、こいつは。  そう腹の中で涼は独り言ちる。それに気づいたわけでもないだろうに、生徒の口から声が漏れる。  空気を小さく震わせるそれは、笑い声だった。 「先生、少しは俺に興味持った?」  そうだろう、と確認される言い方に、涼が素直に頷くはずもない。 「別に……。面倒な生徒だとは思ってる」  だからそう答えた。なのに、生徒はがっかりするどころか、笑みを深める。それがまた、涼のかんに障った。 「そういうことにしておこっか。とりあえず、しばらくここには来れないから、先生と話せて良かったよ」 「そうか。それは良かった」  何が、とは言わなかったが、明らかに生徒とは違う意味合いを含めた溜息交じりのそれにも、綺麗な顔は翳りさえ見せない。焦らせようと思ったわけではないが、少しくらい動揺しろよ、と涼は腹の中で毒づいた。  どうにも年下の、それも生徒に振り回されてる己に、涼は何とも言えない気分になる。 「先生が会いに来てくれる分には、いいから」  にっこりと微笑む生徒に、涼も負けじと笑みを作った。 「気が向いたらな」  名前も、クラスさえ知らない相手に会うことなど、あるはずもない。  涼は清々したとばかりに立ち上がり、先ほど中断した作業に戻る。それを眺める生徒の気配を感じながら。  やっとドアの向こうへと消えた生徒に、涼は深々と溜息をつくと、綺麗とは言い難い本棚に軽く寄りかかる。 「……ほんと、何なんだよ……」  応える者などいないというのに、呟かずにはいられないほど、涼は疲れていたのだった。

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