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十三.
トントンと軽いノックが聞こえた。
美術を選択している生徒はそう多くはない。一学年に三十人程度だ。テストも期間半ばに一斉に行われたために、採点もほぼ終わっていた。
涼はギッと椅子を鳴らし、背後の窓を眺めた。
南の方ではもう梅雨明けをしたと今朝のニュースで言っていたが、ここでは未だに雨が降り続いている。
勢いよく窓に当たる雨粒が幾筋もの跡を残し、下へ下へと流れ落ちてゆく。まるで刻々と変化する世界地図のようだと、涼は僅かに口元を緩めた。
厚い雲が覆い、光の届かない世界は灰色で、そこにはどんな色もつけいる隙がない。
再び同じ音が耳へ届くと、涼はゆっくりと立ち上がった。
ホームルームのあってるだろうこの時間に、B棟の上階に上がってくる者はそうはいない。静けさの中に、涼が開けたドアが小さく軋む。
「ーー先生?」
少し驚いたように首を傾げる新井洋平が、そこにいた。
いつもであれば中から返答する涼本人がドアを開けた事をいささか不審に思ったのだろう。洋平は戸惑ったような表情をしていた。
その顔を見た途端、涼はここ最近思い出したように湧き上がる胸の内の、もやもやしたものを感じた。だがそれは、表情にも気配にも出してはいけない。特にこの生徒の前ならなおさらーー。
無意識に自分を殻に閉じ込めた涼は、今、自分がどんな顔をしているのかさえ分かっていなかった。
「……テストの採点をしてるんだ。今日は帰りなさい」
いや、生徒会役員だからその仕事があるのかもしれない。もしくは何か部活動を? ふとそう思いつくが、涼はどうでもいいな、と心の中で勝手に決着をつけ、顔を逸らしてドアを閉めようとした。
だが、何かにそれを阻まれる。
洋平の手だった。
「先生、……俺の名前、分かった?」
もういつもの表情を取り戻した長身の生徒に、涼は思わずくすりと笑う。
若いな、と思う。そして十代の時の自分を思い出そうとするが、涼はその時、何故かうまくそれを思い浮かべることが出来ないでいた。
「分かったら、落とし物を返してくれるか?」
長引かせてはいけないと思う。
いつになく、何かに急き立てられるような焦燥感が涼につきまとう。何もしていないのに、洋平といる時の自分が何か悪いことをしているような気分になった涼は、そのきっかけを作った諸悪の権現を消してしまえばいいんだ、と思いつく。
洋平はきょとんとした後、考えるように黙った。
「ーーそうですね、返してもいいですよ?」
そして整った造形に微笑を浮かべ、そう言ったのだ。
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