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三十二.
「――名刺か。貸せ」
洋平が桧枝から渡された物を荒い手つきで奪い取った涼は、それを見もせずにびりびりと破く。原型がわからないほどに細かくされた紙切れは、涼がぱっと手のひらを開くと、風にわずかばかり舞って無残に地面に落ちた。
「先生……学校と違うな」
その行動におかしそうにくすりと笑った洋平が、そんなことを口にする。だから、涼は肩を竦めて伊達眼鏡を押し上げた。
「学校は仕事。今はプライベート。――なんだ、がっかりしたか?」
期待半分で後半部分を付け足すと、今度は洋平が肩を竦めて見せる。
「まさか。先生のいろんな顔見れるのは、楽しい」
洋平こそ、学校で見るよりも表情が柔らかい気がする。本当に嬉しそうな微笑を浮かべた顔の整った男に、涼はどきりとしてしまった。それを誤魔化すようにぐっと顎を引き、視線をゆっくりと洋平の背後に移す。そこではたと気づいた。
「おまえ、戻らなくていいのか?」
「コーコーセーはこんなとこにいちゃダメなんだろう?」
先ほどの涼の口真似をして、洋平がおどけたように笑う。
「……まあ、そうだがーー」
「あんたは? もう帰んの?」
洋平がいつも美術準備室を訪れた時のような取り留めのない会話に、涼は一瞬ここがあの隔絶された静かな部屋なのではと錯覚した。もちろんそんなわけもないのだが、しばらくなかった洋平との穏やかに思える時間に、自分が内心喜んでいることに涼は気づく。それがなんともきまり悪く、ここが公共の場でなければ頭を抱えて座り込んでいたに違いない。
「帰る」
涼はこの場に洋平と二人でいると、あらぬことを言ってしまいそうになると、歩き出した。
突然の涼の行動に、洋平はそれほど慌てずに後をついてくる。
繁華街の外れに差し掛かったところで、涼は振り返った。
「どこまでついて来る気だ」
洋平も家に帰るのならと放って置いたのだが、さすがにずっと後ろにいられると落ち着かない。なので涼は確認したのだが、洋平は軽く首を傾げて見せる。
「どうかな。――先生、次第?」
「どういうことだ?」
わけがわからず眉間に皺を寄せた涼を、洋平はじっと見つめた。
「――新井?」
黙って視線を寄越す洋平に、涼は再度声をかける。
「それ」
「え?」
表情を崩し、さっき見たふやけた笑顔をする洋平に、涼はきょとんとした。
「名前だよ。さっき初めて呼ばれたんだけど。――いつわかった?」
「あ……」
そこで初めて涼は洋平とやっていたゲーム擬きを思い出す。
『俺の名前、わかった?』
準備室を訪れる度に、帰り際に繰り返されたセリフ。
知り得た後も、距離を取るために知らないふりをした。
その名前を呼んでいた事に、涼はようやく気づく。
「……さっき、桧枝に聞いた」
それを知られるのが嫌で、涼はそう答えた。
だが、洋平は考えるように一瞬黙り込むと、首を横へ振る。
「嘘だね。それより前だろう?」
「……なんでそう思うんだ?」
実際に桧枝は洋平の名前を知っていたのだ。
即座に否定され面白くなかった涼は、憮然として聞き返す。
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