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「確か、戦時中の男女のイロコイだったよな?」 「悲恋ものね。意味深な文章があって、恋文じゃないか?って、色々噂されてきたやつ」 雲谷の言うには終盤の一文が特定の誰かに宛てたメッセージではないかという事だ。 「それなんだけど……、」 俺と雲谷の遣り取りに割って入った雨宮はサッと周りを確かめて、声を低める。 「兄貴がさ『うたうさぎ』が誰かは判らないけど、そのラブレター騒ぎは確かに有ったって言うんだ。相手はこの学校の生徒じゃないか?って当時、下世話な噂が広まったらしくてさ」 「男同士ってことか?」 「そうなるね。それで……」 ふと、須崎のことを考えた。雨宮が颯介は32歳だと言っていたから、丁度、この本が発行された頃は17歳……、須崎も同い年だから、この学校の文芸部員だった頃と合致する。須崎に訊けば『うたうさぎ』の正体が判るんじゃないか?と思いながら、一方で、もっと嫌な予感に俺は辿り着いていた。慌てて『うたうさぎ』の作品を探す。 「海晴、気付いた?」 という雨宮の声に一度、振り向くと、 「鹿野さん、部活が終わると文芸部の部室を見上げることがあったって言うんだよねぇ……」 と、面白そうに笑う。 「雲谷、タイトル何だっけ!」 「『紫紺の華』うしろから探した方が早いよ。……あぁ、それ!」 裏表紙から捲って小さな挿絵の入った頁に指を入れる。 庭先だろうか、オッサンが一人、膝を抱えてしゃがみ込み、釣鐘状の花を見ている……、そんな絵の上に「完」とあるから、これがラストシーンだ。終章の内容には全く記憶がなくて、 「その挿絵を描いたのペンネームをくれた友達らしいよ。後書きに短く添えてある。上手だよね」 と、雲谷が感心する横で、俺は辛気臭さに惰性で読むのも飽きて最後の最後でやめた事を思い出していた。或いは結末を知るのが怖かったのかもしれない。救いようのない惨劇、追い詰められる主人公、死を考えない日は無かった俺にとって、その物語はあまりに過酷過ぎた。認めれば、うたうさぎの筆力に魂ごと持って行かれそうで怯えたんだ。 終章の前、本編の最後にポツンと(くだん)の一文がある。 《十五年の後、西南西に一の微笑を戴き、あなたが日毎汗を拭った()の場所で、ともに瘧草(えやみぐさ)(わら)うのを()でとう存じます。》 俺たちと同い年ぐらいのヒロインが戦地に赴く男に別れの橋の上で、こう告げるんだ。 言われてみれば『ご無事で』でも『待っています』でもない、この突然感のある台詞は前後の文脈を見ても浮いたものに感じられた。 「……けどさ、これの何処がラブレターだよ?相手が鹿野さんかもって興味以前に、こんなの噂も何も、誰かが面白半分にこじつけたデタラメじゃないの?あの人が当時からカムアウトしていたとして、相手だって確証、っんぐ…か、かいっ……?」 堪りかねて雨宮の口を掌一杯にブロックした。余計なことをペラペラと、ほら見ろ、雲谷のキョトンとした顔……、びっくりしてフリーズしてんじゃねーか。 「僕、今の……記憶からカットした方がいいよね?」 「賢明だな……。それより、これ読める?」 俺は雨宮を押しのけて、雲谷に『瘧草』の字を指した。雲谷は「乱暴しちゃダメだよ?」と苦笑いで、そっと雨宮を気遣うように目配せしている。背後で「おとなしくしてまーす」という雨宮の囁く声が聞こえて、俺はフッーと息を吐いた。ゲイだのカムアウトだの、うるせーってんだ。颯介を悪く言われた気がして、イライラとムカムカが一緒になって押し寄せてくるのもつまんねぇ……。けれど、本当に鹿野颯介がこの一文の受け取り手だとしたら、うたうさぎは須崎真詩だったりするんだろうか??じゃ、あの『ペンネームみたいなもの』と言った『ポエト』は……? 「これ『えやみぐさ』って読むんだって」 という雲谷の声に我に返った。 「えやみぐさ?」 「リンドウのことらしいよ。僕ね、うたうさぎさんは、この作品を書いた時に好きな人がいて、何か理由があってサヨナラしたんじゃないかと思っているんだ」 「……はぁ、」 「鹿野さんかどうかは兎も角、朝井くんも雨宮くんのお兄さんと同じ考えでね、相手は本校の生徒で言葉遣いから同級生か先輩だろうって言うんだ。《日毎汗を拭った》って、ずっと一緒にいたのか、どこからか見ていたのか、ストーカーかって笑ってさ。こんなに繊細で風情のある文章を書く人に失礼だよね……」 失礼かどうかは判らないが、確かにこれが秘匿的な意味合いを持つ文章なのだとしたら、片想いか、後ろめたい想いの持ち主だったのかも知れない。 言葉の一音一音を大切に置く雲谷の話し方は自然と冷静になれて、俺は黙り込む雨宮に手でゴメンを作った。雨宮も笑ってゴメンを作り返す。 「ねぇ、二人とも……」 と、好奇心旺盛な眼を爛々とさせて、雲谷が俺たちを呼んだ。 「僕はこれ、再会の約束のような気がするんだ。発行が15年前なら15年後って今年だと思わない?竜胆の咲くのを共に見たいと言うんだから丁度、今頃からだよね?Xデーは近い気がする。この文章を解読して日時を割り出せないかな?」 推理小説の読み過ぎじゃないかと思うが、雲谷の眼は真剣で、 「突き止めてどーすんだよ?お前、すっかりホームズきどりだな」 と笑いつつも、謎解きが好きなのは俺も同じだ。少し興味がわき始めていた。 雨宮は挿絵が気になるらしい。まじまじと見つめ、何かを思い出そうとウンウン唸っている。 「この絵、どこかで似たタッチのを見たな?って、さっきから考えているんだけど、あれだ……、和菓子屋の包み!学園前駅の反対側の川向こうずっーと行ったら神社があるじゃん?それを右に折れて徒歩どれぐらいかなぁ?老舗の小さな店があって、うちのかーちゃん、茶道やってるから時々買いに行くんだよ。そこのは踊る爺さんとウサギなんだけど、ちょっと似てる……」 「いや、でもさ、雨宮くん。同級生が描いたとしたら当時、高校生だよ?」 「だよなぁ?こういうの墨絵って言うんだっけ?似たか、真似をしたのかも……」 言われてみれば、俺も見覚えがあった。入院すると誰かしら見舞いに持ってくる人気の和菓子屋で、確か『白兎堂(はくとどう)』という。母が好きで、いつも、包みを見る間もなく開けてしまうんだ。 白兎堂、うたうさぎ、何か接点があるのだろうか?と考える横で雲谷が、 「その店に30代の男性はいる?」 と、俺と同じことを考えたのだろう、雨宮に訊いている。 「いや、おっちゃんと婆ちゃんがいて、後は女性店員が交代で入っていたと思う。何?挿絵を描いた人が店にいると思った?」 「うん、可能性としてだけど、」 「居たら俺だって、もっと早くにピンと来てるよ」 それもそうだと二人の会話を聞きながら、俺は例の一文と睨めっこして、ふと訊いてみた。 「これ、どうして『竜胆(りんどう)』じゃなく『瘧草(えやみぐさ)』なんだろう?」 「さぁ?知識ひけらかしの気障(キザ)野郎なんじゃねーの?」 雨宮が笑う横で俺は敢えて『えやみぐさ』にした理由があるはずだと、手掛かりになる文言(もんごん)を探して頁を捲った。そして、弾かれたように席を立ち、辞書を取った。 「時枝くん?」 呼ばれた声も無視して頁を捲る、捲る、捲る……。 竜胆の異名の瘧草……。うたうさぎが『苦菜(にがな)』でも『疫病草(えやみぐさ)』でもなく『瘧草(えやみぐさ)』の字を充てた理由は『瘧(おこり)』が三日熱を指すもので、恋に夢中になった状態を例えたものだからじゃないか? 辞書には『(おこり)が落ちる』の意味として『ある物事に夢中になっていた状態から覚める』とあるから、瘧は夢中になっている状態ということになるじゃないか。挿絵の竜胆は堅く閉じているが、植物図鑑では晴天に咲くとあるし、その花言葉は蕾に限り『あなたの夢が甘美なものでありますように』ともある。この、庭先にいる歳を重ねた主人公は夢を見ているのかもしれない。恋を成就させたか、甘美な初恋は初恋のまま終わってしまったか……。 いや、一輪だけ空を仰いで開きかかった竜胆に微笑むこの挿絵は作者の希望を意味するんじゃないのか……?そう思って、俺は小説の表紙を確かめた。 「……っ、……」 悪い予感ばかり的中する。 「……嫌だ、……」 思わず声に出た。 「嫌だ!絶対に嫌だ!」 「ちょっ、海晴?声が大きい……、」 「どうしたの?時枝くん」 目許に朱が走って、酷く心が騒いだ。もう、認めざるを得ない感情に只々頭を蝕まれ、気付いた時には廊下の中央に立っていた。 うたうさぎなんて、誰が言い出したんだ……。 『紫紺の華 / 詩兎』 正しい読み方は『シト』……そして、颯介だけの『詩兎(ポエト)』に違いない。 授業を飛び出してしまった手前、戻るのも憚られて、俺は途方に暮れた。 「こんなの……絶対、敵いっこないじゃん……」 もう、自分に嘘はつけなかった。 俺は鹿野颯介が好きなんだ……。

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