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第4話

 今日は部活行かないでよっぴと帰るから、ごめん!と姫小路は兵藤に言って逃げ去った。そうでもしなければ兵藤を拒むことなど出来ない。学生センターの入り口で待っている相馬に抱き付かんばかりに駆け寄った。相馬は、姫小路にとっては十分細い両腕を広げたが、姫小路は寸前で止まった。 「いや、飛び込んでこいよ」 「オレ今臭いから…」  ただでさえ臭いというのに、汗をかき、走ってきた。自身の匂いを確認した。やはり、する。 「はぁ?お前なぁ、オレが恥ずかしいだろうが」  腕を開いたままの相馬が姫小路を包んでぽんぽんと背を叩く。今日は昨日の清涼感のあるクリスタルの香りより幾分甘やかさの増した、微かなスパイシーさもある爽やかな香り。それから相馬の柔らかな匂い。いいな、と思う。体臭のイメージがない。おそらく汗だってジャスミンやラベンダーの香りがしそうなものだ。耳の横でくんくん音がする。相馬も匂いを拾っているらしく、思わず突き離してしまう。 「やっぱり臭うんじゃん…」 「シャンプー変えた?」  相馬は鼻を小さく鳴らしながら何か考えているような、思い出しているような風だった。 「…変えたよ」  姫小路の声は小さくなる。最近売れているタレントがテレビコマーシャルに起用されている、洒落たシャンプーだ。腋が臭いならせめて髪はと。正直に話してしまう。相馬だから。 「わはは、かわいいなぁ。でもあんま、大ちゃんっぽい匂いじゃないかも」 「オレっぽい匂いって、なんだよ…」 「そうだな…」  腋臭か。汗臭さか。卑屈になってしまう。兵藤は好きだと言うが、その肯定は姫小路の求めた肯定と少しズレている。相馬はなかなか答えない。その間がより姫小路を追い詰めていく。 「ちょいちょぉい、卑屈になんなよ」 「なってない…」 「なってる!お前落ち込みとめちゃくちゃ眉毛下がって麻呂眉毛の犬みたいになるもん」  けらけら相馬は笑った。そして真顔になる。そのギャップが、同性ながらかっこいいと思った。そして侍らせている女の子たちのレベルの高さに悔しく思った。 「オ、オレは、そのまま、大ちゃんの母ちゃんが使ってた洗剤の匂いが、一番大ちゃんに似合ってると、思った」  吃りながら相馬は言った。夕日を浴びて相馬はオレンジに染まる。 「…なんだよそれ!もっとあるだろ…!」 「他に思い浮かばねぇんだもん。バニラとかバラとかって感じじゃねぇし」 「そりゃそうだ!」  やいのやいのと言い合って大学の構内を歩いていく。 「ずるいよ、よっぴは中坊の時と違うのに。オレだけ中坊のままかよ。置いて行かれてるみたいだ」 「ふぅん、なら迎えに行くって。呼んだらいいや、オレを」  な?と無邪気に笑った。それもまたかっこいい。両腋に刺激臭を抱えた自分には言えそうにないと思って姫小路は小さく肩を落としながら愛想笑う。相馬の顔にあった無邪気な笑みの余韻が一気に消え、ムッとする。 「そんな気になるならさ、剃っちゃえばいいじゃん」 「え?」 「わ・き・げ!気休めくらいにはなるんじゃね」  簡単に言う。 「え!?そんな、女子じゃあるまいし!」 「イマドキなら海外男子はやってるよ。…あれ?腋毛カラーだったかな…?」  今は女子も腋毛剃らないんだったっけ…?と相馬は自問自答している。 「海外って言ったって今暮らしてるの日本だしな…でも、そうだな…」  ぎらぎらした美しいガラス玉の瞳。這い回る舌。音を立てて吸われると甘く痺れてきてしまう。 「剃ってやろうか?」 「え?」 「剃ってやろうか。オレが」  何故か照れた様子の相馬に、傾きかけた考えが戻る。腋がつるつるなのはやはり恥ずべきことなのかと。 「オレの腋、めちゃくちゃ臭いから…自分で剃るよ。剃るかもまだ分かんないけど」 「自分で剃ったことあんのかよ。変な角度で剃れて、カミソリ負けして痒いぞ多分」 「う゛っ」  両腕を叩かれる。諦めろ、と。相馬は善意で言ってるのだろう。だがその善意で相馬を追い詰めて、果てには自分に回ってくる。姫小路はそれが不安だった。尋常じゃない臭さなのだ。相馬には嗅がせたくない。長い友を腋臭で失ったとなれば余計自分を嫌いになってしまう。そう生きるのは容易ではなさそうだ。 「じゃ、じゃあ剃らない…」 「なんで」 「だってオレの腋…自分で言うのもなんだけど、めちゃくちゃ臭いから…よっぴに嫌われたくないし…」  バカ。相馬は小さくそう呟いて、ぽすっ、と優しいパンチを腹に入れる。 「ごめん」 「べ~っつに。今日は大ちゃん家にお邪魔すんの決定な」 「えっ」 「ふふん、飯も作ってやるって。だから元気出せ、な?」  相馬は背伸びをして姫小路の肩に腕を回して奥の肩をぱしぱし叩いた。そして爪先立ちのまま歩く。 「めちゃくちゃ臭いってお前にめちゃくちゃ言われたオレがめちゃくちゃ剃りたいって言ってんだからあんま気にすんな」 「めちゃくちゃ剃りたいの?」 「言葉の綾だって」  姫小路もわずかに腰を落としたものの爪先立ちに疲れたのか相馬は肩に回していた腕を解いた。 「想像を絶する臭さだったら?」 「オレがめちゃくちゃいい香りになって中和するってのはどうだ?そしたらずっと一緒にいなきゃならなくなるな」  バカ言ってねぇでとっとと帰るぞと相馬が言った。姫小路は、イケメンが言うことはやっぱ違うなと感心した。  帰りのドラッグストアで新しいカミソリを買う。毛穴刺激するらしいぞ、と相馬がネットで調べたらしく、姫小路が手にした除毛剤は戻された。 「めちゃめちゃ狭いけど」 「お邪魔しま~す」  相馬を姫小路が借りている安アパートへと通す。畳の部屋1室だ。それから押し入れと、小さな卓袱台に窓。 「テレビで見る独房みてぇだな」 「悪かったな、よっぴン()みたいにオシャレじゃなくて…」  気にすんな、と歯を見せ笑い、背を叩かれる。陰気だった部屋が明るくなった。 「よし、じゃあ早速」 「…っほんとに、やるの?」 「善は急げだ」  善なのか。押され気味に姫小路は相馬をタイル張りのトイレ付きの風呂場へ案内する。相馬のところのユニットバスよりは広く、風呂場とトイレが仕切られているがタイルはカビじみて日当たりは悪い。全体的に安いだけボロかったが、売り文句にもなっていた風呂場の広さだけで選んだといってもよかった。 「うっし、やるぞ~」  相馬は男2人だとなかなか身動きもとれない風呂場でも陽気で、姫小路の上を脱がせると、タイルへ追い詰める。髭剃り用のシェービングクリームを手に出した。 「本当に、臭いから、…ね?」  相馬と対峙しながら腕を上げ、水で簡単に濡らした腋を晒す。緊張していた。震える。自身の刺激臭が鼻腔を伝っていく。悪臭を放つ恥ずかしい箇所を見られながら濃い泡を塗りたくられた。少し固い指が泡をまとって毛の集まりを撫でる。 「っん…」  くすぐったさに声が漏れる。相馬の手が止まり、どうしたのかと相馬を見れば固まった姿と目が合った。臭いに耐えきれないか。我慢されるのも恥ずかしい。 「よっぴ…、やっぱ…」 「大ちゃん…!」  相馬は唇を緩く噛み、眉根下げひどく甘えた顔をしていた。腋に泡を塗る指が締まった皮膚を面白がりながら押したり摘んだり、泡によって集まった毛束を回して遊ぶ。 「ちょ、っとっ…よっぴ、くすぐった、い」 「大輔、かわいい」  小さく呟かれる。 「冗談はここまでにして。動くなよ」  剃刀を見せつけられる。姫小路は息を飲んだ。泡まみれの腋に当てられる。 「ちょっ、あ、あ、わ!お、あっ」  腋を凝視される緊張感、指とはまた別のくすぐったさ、刃物の不安に騒いでしまう。泡を掠めと取っただけの相馬が一度肌に沿わせた剃刀を離した。 「ちょっと、大輔くぅん?」 「ご、ごめん」  しゅんとして、唇を柔らかく噛む。相馬はまた腋に集中した。水道から水の落ちる音や排水管に水が通っていく音、遠くを走る車やトラックの音がした。近所の人の話し声もする。ざりざりと泡の中で毛が皮膚から切り離されていく。所在無くたまたま見た、腋に近付く真剣な表情の端整な顔立ちにまた緊張感が走る。 「緊張されると、オレも緊張すんだケド」 「ごめ…っだってよっぴ、かっこいいか、ら…」  あ~あ、と相馬は頭を押さえる。 「お前なぁ」 「ちゃんとする!次は、ちゃんとする!」  相馬が再び残りの腋毛を剃っていく。神経が集中したそこはやはりくすぐったかった。だが相馬の集中を邪魔するわけにはいかない。 「んっ、…ふっ、ン…ぅん、」  笑いとも緊張ともいえない衝動を抑える。 「ふ、んン、…っ」  片手で口を押さえる。剃刀が愛撫するように肌の上をなぞる。ざりざりした感触がむず痒い。相馬の眼差しが注がれ、泡が薄くなった柔肌に息がかかる。毛のないそこを見られている。  泡にまみれた毛がタイルの床へ落ちた。 「片方は終わった~」  真面目な顔が消え、きゃらきゃら笑ってふい~っと相馬は額を拭う。 「めちゃめちゃ緊張する」 「オレも」  苦し紛れにそう言うと、思いの外本気のトーンで相馬が同意する。それがまた、何故だか恥ずかしかった。 「片側だけ残しておくか?案外オシャレかもよ?」 「そ、剃って…」  片側だけ残すのは変だ。オシャレの要素が見当たらなかった。もう片方の腋の下も濡らして、相馬がクリームを塗りたくる。 「動くなよ」 「痛く、しな…いで、」 「さっき、痛かったか」  緩く首を横に振る。茶化し茶化される雰囲気は消えて互いに本気で除毛に臨む。片側だけで疲れていた。他人を除毛する、他人に除毛されることがここまで体力を使うとは思わなかった。 「っ、ぅうッ、ぁ、う、」  唇を噛む。くすぐったさと、感覚とは違うむず痒さ。相馬の真っ直ぐな眼差しから逃れたい。背筋を駆け抜ける弱すぎるほどの電流に腰が揺らぐ。幅の広い刃物は丁寧に丹念に滑り、悪臭を溜め込む長く濃い毛を刈っていった。その動き全てを相馬が操っている。不安の色を見せず、かといって自信も見せず。 「っしゃ、終わった」  泡と毛の塊がまたぽとりと落ちる。剃刀についた毛の混じった泡を取ろうと刃の側面をなぞった相馬が、「いっ」と小さく叫んだ。 「ああ、もう何してんの」  刃物から離された指を掴んで水で洗う。まだ腋も洗っていないが、泡を落とした指を舐める。水に血が滲んでいた。 「ちょ、いいって!それより大ちゃんは腋の泡落として!」  相馬は姫小路に舐められた指を抱く。 「ご、ごめん…」 「いや、ビックリしちゃって…あんがとな」  にへっと相馬は笑った。 「腋洗ったら、絆創膏出すから待ってて」  相馬は顔を赤くして風呂場から出て行く。1人になってしまうと、姫小路は相馬の指を勢いで舐めてしまったことを反芻して、ばたばたと暴れたい衝動に陥った。嬉しかったから。相馬が真剣に、文字通りに腋の問題と向き合ったことが。腋を洗って、毛のない腋を撫でる。もともと剛毛だった腋だ。ツルツルにはならない。 「よっぴ、絆創膏」 「お、大ちゃん。どう?毛のない腋は」  相馬の指を取り、絆創膏を貼る。相馬は手持ちのハンドクリームを掌に搾る。手が乾燥したのかと姫小路は思った。 「チクチクすっから、ほら、腋上げて」  相馬にまた腕を上げられ、ハンドクリームを塗られる。 「ちょ、あ、くすぐったい!」 「なぁ」  ハンドクリームを塗られながら相馬は訝しんだ目を向けた。 「お前、大丈夫か?」 「あ、ひっ、ぅ、大丈夫か…っぁ、って?」  すーすーしていてまだ慣れない腋に塗り広げられるぬるぬるの感触に喚きながら相馬の問いを問い返す。大丈夫か否かの問いが発生するようなことは何も起きていないつもりだ。 「腋に痣みたいなのあるからよ」  相馬に目を見つめられる。切れ長の、ブラウンめの瞳が姫小路を離さない。 「いじめられてねぇよな?」 「いじめられてない!」  無言のまま暫く見つめ合う。虹彩が見える。瞳孔の奥を見据えるほどに近い。整った顔が怖い顔をしている。 「…なら、いいんだけどよ」  からから笑って、まるで揶揄われているようだった。腋からハンドクリームの押し付けがましくない匂いがした。 「なぁ」 「何?」  呼んだ相馬はただ、へへへと笑うだけだった。上機嫌だ。 「よっぴはさ、友達と、その、…オ、オナニー見せ合ったりする?」 「は?」  相馬の表情が一瞬で変わった。 「あ、えーっと、やっぱ、」 「シコんの見せ合うかって?…大輔誰かと見せ合ったワケ?」  ニヤつくような怒っているような、相馬はどういう顔をしていいか分からないらしくころころと中途半端に表情が変わる。 「…」  肯定も否定も出来なかった。俯いてしまう。 「やっぱ、いじめられてんのか?」 「ち、違う…いじめられて、ない…で、でも、見せ合うものなのかなって、初めてのことだったから、ちょっと、なんか、分からなくて…」  相馬は姫小路の肩を叩く。 「見せ合いは、しねぇけど…大ちゃんが気にしてんなら、」 「よっぴ?」  相馬は項垂れ、何も言わない。 「…」 「腹痛いか?」  肩に置かれた手が、弱く指を立てる。 「オレで上書きしろ」 「え、ちょ、よっぴ?上書きって?」  目の前で、相馬が履いているジーンズのファスナーを下ろす。何が始まる?姫小路は首を傾げた。 「オレ、シコるから、大ちゃん、見ててよ」 「な、ちょ、え、いいって、よっぴ、よっ…」  唇が柔らかく湿った。理解する前に離れ、後頭部に腕が回り、引き寄せられる。反対の手が開いたジーンズの中に消える。状況を見ているだけで精一杯だった。 「よっ…ぴ…」 「っ…、」  前髪を甘く噛まれる。頭皮が緩く引かれる。鼻がすんすん鳴る。鼻先が埋められ、長く息を吸う音。 「ッは、…っ」  相馬の吐息が聞こえる。視界に入るか入らないかのところで蠢くジーンズの中の手。しなやかで優しい指が動いている。そんなつもりではなかった。 「見え…、ない…っ、?」  掠れた声が耳の奥に残った。

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