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逃げた猫

朝、目が覚めると、マヒロがいなくなっていた。 他の部屋を見てもいないし、玄関の鍵も開いていた。 寝室の机には、『Sorry…』と書かれたメモが置かれていた。 『マヒロ……帰ったのか……?』 マヒロは日本人だ。 日本に帰られたら、もう二度と会えない気がした。 こんなに熱い気持ちになったのは久々だったのに……。 悲しさを抑えながら、朝マヒロに飲ませようと思っていた牛乳を飲む。 『マヒロ……』 牛乳を飲んだあとのコップにその呟きは吸い込まれていった。 大学に着くと、同僚のビルが話しかけてきた。 『シン、おはよー!……なんだよ、元気ないじゃん』 『まぁな。……拾ってきた猫がいなくなってな』 『猫?猫なんて飼ってったっけ?』 マヒロがいなくなったショックで、なんだか今日は仕事に身が入りそうにない。 『あ、そうそう。これ、今日入ってくる留学生の名簿。オリエンテーションのクラス分けもしてるから、目を通しといて』 ビルは大学の事務員だが、元々家も近所で、昔からの親しい友人だ。 私がゲイであることも知っている。 『それじゃあ、先いくから。猫くらいでしょげるなよ。また、ひょっこり現れるさ』 猫のように帰ってきたらいいが、人間ならそうもいかないだろ。 自分の仕事部屋に入り、名簿に目を通す。 アメリカ人に、イタリア人、ブラジル人、中国人、韓国人……多種多様の名前に目を通していると、ふと、ひとつの名前が目に止まった。 『Mahiro Yamaoka age 20,Japan』 マヒロ……。 まさか、そんなことがあるのだろうか。 逃げた猫を見つけた。 教室に入り、素早く教室を見渡すと2番目の席にふわふわの茶髪の青年を見つけた。 顔色はいいし、二日酔いにもなってないみたいだ。 よかった。 挨拶をした時、目が合った。 けれど、マヒロはなんだか困った顔をしていた。 オリエンテーションの組み分けも、運命的で、まさか担当教員になれるとは思わなかった。 けれど、マヒロはオリエンテーションの時もそわそわとして落ち着きがなかった。 次の面談の時に、ちゃんと話が出来る。 最後、マヒロとの面談が始まった。 取り敢えず、大学ことや不安なことを聞いて、一通り説明やアドバイスが終わり、『最後に不安なことはないか』と聞いた。 『あ、あの学校の事じゃないんですけど……その、今日の朝……俺、先生の家で寝てしまったみたいで……』 もじもじと恥ずかしそうに話すマヒロ。 私は取り敢えず、人払いをするのと、もし聞かれても大丈夫なように日本語で話をすることにした。 びっくりしたが、マヒロは全く昨日の夜のことを覚えていなかった。 酒にだいぶ酔っていたし、覚えていないのも無理はないかもしれないけど……。 あの夜、「好きだ」と言ってくれた言葉も覚えていないのはショックだった。 マヒロは、ああいうゲイバーでは狙われやすい。 力も弱そうだから、抵抗出来ないだろうし。 一応「もう行くな」と釘をさしておいた。 「あの、先生……俺、先生と、その、最後までしたんでしょうか……」 マヒロが寝たせいでできなかった。 少しだけ意地悪をしたくなった。マヒロの顔を私の方へ向ける。 「君は狙われやすい……細身で、肌もキメ細かくて……おまけに」 可愛い。 そう言いかけて、やめた。 私がマヒロのことを好きなのがバレてしまう。 「最後までしたかどうか、後ろに指を入れて、確かめてみたらいい」 マヒロは処女だ。 今後も使うことはないだろうし、女性を好きになって、結婚して、子供が出来て……。 普通の家庭を営んでいくんだろう。 私が愛したかつての恋人のように。 私は鍵をしていた扉を開けた。 『気をつけて、帰りなさい』 せめて、マヒロが充実した留学生活を過ごせられるよう、教員として接していこう。

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