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第9話

「今日はもう遅いと思うので、十分に休んで帰ってくださいね。あ、勿論、神足さんに予定とかなければ」  あの神足が酒で潰れて、班目の家で目を覚ました時。神足を1人残して、部屋を出て行こうとする男の長めの黒髪が微かに揺れる。  神足は班目の姿を思い出すと、田口に言われたことを思い出した。 「コミカライズはあまり……と言われるのであれば、勿論、アシスタントの話もあります。それも、これまでのように単発ではなく、長期的というか、神足さんが良いと言うまでの」 「そうなんですね……それは凄い」  田口の説明に、神足の声は詰まりながらも、明るかった。 だが、それはあまりにもぎこちなく響く。神足に何の事情もなければ、不安定な単発から安定した働き口が見つかったということで喜ぶべきところだっただろう。どんな作品を描く先生か、アシスタント料はいくらなのか、とか食い気味に質問しても、なんら不自然ではない場面だと神足も思う。 ただ、そもそも、神足の仕事は他の作家からも認められていて、これまでにも専属にならないかという話も幾つもあった。その度に冨手のことが頭をよぎってしまって、「はい」とは言えなかったのだ。 「指宿(いぶすき)先生、野瀬(のせ)先生、それに班目先生からも神足さんにアシスタントを専属でお願いしたいとおっしゃっていて、検討していただくことは可能ですか?」 『先生なんか!』 『先生なんか?』 『好きじゃない……』  神足はまたカリカリとコミカライズのラフ画を描き始めた。  田口の告げた野瀬は面識がない作家だったが、指宿と班目はいずれも神足がアシスタントとして仕事をしたことのある作家だった。 「指宿先生は急病の時に殆ど神足さんにお任せしたのだけど、自分で描くのと全く変わらないと言われていたし、野瀬先生は前々から神足さんの評判を聞かれたり、アシスタントして手がけたものを見られたりしていたみたいで。あと、班目先生なんか神足さんさえ良ければ、アシスタントなどではなく、共同作家として描いて欲しいと言われていたんですよ」  田口はファイルを3つ開けると、指宿と野瀬、班目のコミックを取り出した。  指宿の作品は甘美で繊細なタッチを始め、魅力的な人間関係と柔らかな感情の描写の多い恋愛と友情がメインの作品だった。  一方、野瀬の作品は指宿の作風と反対にリアルなタッチで、複雑な人間関係に残酷な感情が散りばめられたサスペンス風の作品だ。  そして、神足は班目のコミックを開かずに眺める。一応、今、班目が手掛けている作品のジャンルとしてはダークファンタジーとなっているが、それに終始しないものだった。まるで一本の映画を見ているようなのに、中だるみや重苦しさはなく、読者に媚びたような軽薄な感じもない。見る人によっては愛がテーマの作品だと評される場合もあれば、日常の全てを払拭する、清々しい作品だと評される場合もあるらしい。 「指宿先生は最近、映像化やゲーム化の話が来ていますし、野瀬先生は作品を出せば、必ずランキング上位の不動のレジェンドです。そして、班目先生はお若いですが、売れっ子でデビューから10年経った今でも様々な記録を更新していっています」  アシスタントとは言え、どの先生についても、安定したアシスタント業を続けられるし、給与や描き甲斐等の充実も補償される、と田口は締めくくった。 だが、神足が出した結論は 「すみません。とても良いお話なんですが、何だか、勿体なくて。少し考えさせてくれませんか?」  1人ならず、3人の作家に専属のアシスタントに、と言われた。  しかも、その1人はあの班目だった。何とか、神足は田口の言葉に返すと、一先ずアシスタントの方は保留で、コミカライズの話を引き受けたのだった。

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