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第14話

「あの日……田口君と神足さんと私の3人で飲んだ日。貴方は覚えていないかも知れないですけど、専属のアシスタントになってくれませんか、と頼んだんです」  班目はソファにかけることなく、神足の傍へ行き、膝を折る。神足の髪を撫でる手は初めて出会った時に差し出されたのと同じで、筆マメだらけで、筆が当たらない部分には絆創膏も貼ってあった。 「貴方の答えは『ごめんなさい』で、私……俺はどうしても、諦めることができなかった」  ソファへ伏せ、神足の目は前髪で隠れている。  だが、班目は神足の身体を起こすと、ソファへかけさせる。前髪を整えて、目を暴くように曝した。 「最初は貴方の画力が素晴らしくて、俺だけのものにしたい。そう思っていたのだと思います。でも、あの日、酔いから覚めた貴方が力なく笑って、水を受け取った。それを見て、貴方が気になりました。いや、気になってなんてものじゃない。愛せる人を見つけることができた、と思いました」  班目の告白は優しい声に違わず、優しく、滑らかなものだった。  ただ、神足にしてみれば、じくりじくりとナイフを心臓へと突き立てられて、切り刻まれるようなもので、あまりにも痛みを伴う告白だった。  断れなければ。「先生にそんな風に思ってもらえるような人間ではない」のだと言わなければ、と思うのに、神足は何も言えない。原稿の上を滑らかに滑る指はその1つでさえ、動かせない。 「嫌ならアシスタントの仕事の時のように拒んでくれても良い。でも、もし、もしも、嫌じゃなかったら……」  班目は唇を神足の唇に重ねる。  漫画家にしておくには惜しい程、整った眉に鼻、薄めの唇。  画力、構成、オリジナリティ。才能の塊だと言わんばかりの、希代の漫画家。かつての恋人に痛めつけられて、捨てられたような人間には勿体ない程の人物から乞われる。  神足はあの日、班目の前で抑えた涙を流した。

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