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第七話

『えぇ、アシ以外にも買い出しとかに部屋を掃除したりこともありますし……』  と数日前の神足の口元は柔らかく動いていた。  神足に買い出しや部屋の掃除を頼んだその作家がどこの誰かは知らないが、随分と神足の魅力を分かっていないと班目は思った。  自身の作品が酷評されても、自身の画力や構成力が疑われても、顔色1つ変えなかった男が初めては怒り、悲しいや寂しい、愚かな等、様々な感情に苛まれる。 「……先生? 班目先生?」  班目は自身が呼ばれていることに気づくと、声の主を見る。  何の因果かは分からないが、現在の班目の担当編集者は5年前に沢尻とホテルから出てきた田口勤だった。そう、沢尻と別れる原因……いや、別れる口実に利用された青年だった。 「ああ、田口君。何かな?」  班目はまだ放心しているのか、いつも以上に感情が入っていないように田口には思え、田口は言葉を選ぶ。 「打ち合わせが終わったので、班目先生に奢っていただく為に適当なお店を探しているところなんですけど、『マットーネ』で良いですか? それか、和食とか中華とかが良ければ、この辺りなら『大和』か『龍の髭』かくらいかなと思うんですけど」  マットーネというのはイタリア語で、煉瓦を表す言葉でマットーネという名前のつけられたダイニングバーの壁にはベージュの煉瓦が敷き詰められていた。  多種類の外国製のビールや美しい女性バーテンダーが作り出す見事なカクテル。その美酒にも負けるとも劣らない料理。店のど真ん中へ置かれたグランドピアノと売りが沢山あるのだが、知る人が知る名店だった。  それに対して、大和は作家先生御用達の鰻屋で、龍の髭はこれもまた作家先生御用達の中華料理店だった。 「マットーネにしよう。龍の髭はこの間、能勢先生と行ったし、大和にも近々行く予定があって」  別に、斑目がマットーネにしようとしたのは田口に奢るから安く上げたいということではない。  大和にしても、龍の髭にしても、料理や酒は間違いなく美味なのだが、どうも接待用の店のようで、斑目としては招くのも招かれるのも、いつも座りが悪い思いがしていた。  かと言って、10代の頃から活躍し、20半ばにして既に大作家であると言える斑目を庶民的な居酒屋に連れていく編集者もいないし、作家仲間はともかく友人自体いなかった。 「分かりました。では、マットーネに行きましょう」  田口と斑目はマットーネへ向かい、繁華街を歩き出す。すると、目の前から思いがけない人物が歩いてきた。

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