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第84話
思い出されるのは──去年の秋。
『オレ、今度……ヤベぇ仕事すンだよ』
お互い、一緒にいたいと願いながらも……夏の終わりに起きた傷害事件のせいで、ハイジと離れる事になった時の事が思い出される。
……何となく、ハイジを取り巻く雰囲気が、あの頃とよく似ている気がする。
*
「………」
窓の外は、雨。
未だ止まない、しとしとと降る雨。
外灯が窓を照らし、外側に付いた雨筋や雫の影を、白いレースカーテンや天井に映し出す。
ベッドからそっと両足を下ろし、床に落ちたシャツを拾い上げる。
ベッドに横たわる僕の服を剥ぎ取り、温い肌を合わせ抱き枕のようにして眠ったハイジを、袖を通しながらチラリと覗き見る。
「……」
ハイジが眠る姿、初めて見たかも……
まるで母の胎内で眠るような姿に、愛しさのようなものが胸に込み上げる。
『オレは、あんま寝ないタチなの』──溜まり場に初めて足を踏み入れた夜、ハイジはそんな事を言ってたっけ。
……それだけ、警戒心が解けているのか。
それとも……
「……」
ゆっくりと深呼吸をすると、音を立てないよう静かに部屋を後にする。
玄関脇にある部屋。
普段は鍵が掛かっていて、一度も入った事はない。
特に何も言われてはないけど、入っちゃいけない所なんだなとは思う。
……カ、チャ。
ノブを下げ、そっとドアを開ける。
今夜に限って、ハイジはこの部屋の鍵を掛け忘れていた。
ホストクラブから帰る時に持っていた、黒皮のアタッシュケース。それをこの部屋に置いた後、玄関を上がった所で待つ僕に気を取られてしまったんだろう。
振り返って目が合った瞬間、僕の手を握って……そのまま寝室に……
「……」
開けたドアの隙間から、廊下の灯りが射し込まれる。遮光カーテンを隙間なく引いているんだろう。中は真っ暗だった。
頭部だけを中に差し入れ、様子を覗う。が、別段なにもない、ガランとした──ただの空き部屋。
ドクン、ドクン、ドクン………
激しく胸を打ち付ける心臓。
そこにそっと手を当て、逸る気持ちを抑えなから一歩足を踏み入れる。
電気は付けなかった。
見つかるのが、怖かったから。
「……」
震える指先。
浅くなる呼吸。
心臓が、先程よりも激しく暴れ回り、身体をも揺らす。
響き渡る鼓動。
ハイジに気付かれたらどうしよう……
いっその事、この煩い心臓をくり抜き、両手で覆って動きを封じ込めてしまいたい気分。
暗さにだんだんと目が慣れてくると、ドア側の壁際に例のアタッシュケースが立て掛けてあるのが見えた。
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