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第89話

「さくら……」 遠退く意識の中で、ハイジの声がぼんやりと聞こえた。 「………知りた、かったんだ…… もっと、ハイジの事……」 「……ハイジ、が……今、どんな事を……してるのか……… 僕は、何ひとつ……知らない、から………」 無意識の中、口をぱくぱくと動かす。 まるで、金魚のように。 床が濡れてる。 頬も、口元も、顎も………なんで………? ……声、出てたかな…… ハイジに、ちゃんと届いたかな…… 全身が痺れて、麻痺して、指先や腿、足先が大袈裟に痙攣している。 ………寒い。 「あのホストとは、どんな関係だ」 何処までも、冷め切った声。 答えようと息を吸い込もうとして、やっと気付く。 ………絞められて、る。 首輪を顎裏まで持ち上げられていて。ハイジの両手が剥き出された(そこ)に巻き付き、頚動脈を的確に捕らえ、指を食い込ませていた。 「………」 脳が次第に酸欠となり、頭がジリジリと痺れる。 ドクドクと妙な脈動が強くなり、耳の中が煩い程にゴォーと鳴り響く。 まるで水中に頭を沈められ、溺れかけているかのよう…… 嫌だ。 ……この感覚。 引き戻さないで。僕を。あの家に。 あの地獄に── “あんたなんか、産まれてこなければよかったのよ!” くぐもった、女の罵声。 涙で視界が滲んだ向こうに見えたのは……仁王立ちをし、鬼の形相をした母。 “……ごめんなさい” “ごめんなさい、お母さん……” まだ幼い僕がその足元に跪き、澄んだ瞳で真っ直ぐ母を見つめ、赦しを請う。 人の顔色を伺って、怯えながら身を縮め、自身を卑下するその姿は……何とも惨めったらしい。 もう、二度と見たくない。 あの頃の僕に、戻りたくない。 「……」 目を背けた瞬間── 何かが……音を立てて壊れる。 僕の中の、大切な何かが。 ──もし、あの時。 母に首を絞められた時。 死ねたら……良かったんだと思う。 そうしたら、これ以上傷付く事も無かったし……僕のせいで誰かを傷付ける事も、無かった筈だから…… ……いいよ。ハイジ。 殺して……僕を。 息の根を、止めてよ……

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