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第116話

何だか酷く疲れて……目を瞑る。 瞼の裏に映ったのは、僕を抱き締め、肩を濡らしたハイジの涙。 ……ごめんね、ハイジ。 僕の事、ずっと想っててくれてたのに。 上擦った呼吸をひとつ、ゆっくりとする。 「……」 ハイジが悪いんじゃない。 ストックホルム症候群、というものに陥ってしまった、僕のせいだ。 ………思い、出したんだ。 まだ幼かった僕は、理由も解らず母からの虐待を受けながら──それでも母を、心の底から求めていた事を。 ……ごめんなさい。 僕を嫌いにならないで…… 好きだよ、お母さん…… ……大好きだよ。 どんなに酷い事されたって、僕は、お母さんの事が── あの時の感覚と、似ている。 母が近付けば、勝手に手足や体が震えてしまうのに……それを打ち消すかの如く、大好きだと心の中で呟いていた。 呪文のように、何度も何度も何度も何度も…… 逃れる為なんかじゃない。 心の底から好きだという感情が自然と沸き上がって、僕の目には、母がキラキラと光り輝いて見えた。 小学校に上がってからだろうか。 一度だけ、スーツを着た男性がうちに訪ねて来た事がある。 冬空の下に、裸のままの子供を長い時間放置していたとの通報があったと、母に説明していた。 今思えば、その人は児童相談所の職員だったんだろう。 首からはプラカード……恐らく身分証明書をぶら下げて、母に名刺を渡していた。 そんな肩書きを持っていながら、身形はとてもだらしなかった。 白髪混じりの頭髪には寝癖が目立ち、襟足は伸び、ネクタイは曲がっていて、スーツは安っぽく草臥れていた。 『少し、お子さんとお話させて貰えませんか』───加えて口調も何処か弱々しく、頼りない雰囲気を醸し出していた。 渋々了承した母は、男性を家の中に入れる。 誰もいないリビング。 そこに職員が通され、母に連れられた僕が後から入る。 『少しの間、この子と二人きりにさせて下さい……』──男性が母に軽く頭を下げる。 チラリと僕を見下ろした母は、無言で部屋を出て行った。

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