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第119話

部屋の隅っこに膝を抱えて座った僕に、男性が足音を消しながらゆっくりと近付く。 『……本当は何があったの?』──両膝を床に付き、僕に目線を合わせ、そう尋ねてきた。外に漏れない程度の小声で。 『母の許可無く、アゲハと一緒にお風呂に入ったから』──なんて、正直に答えたりなんかしない。 だって、それはいけない事で。 他人に知られたら恥ずかしい事で。 ……その悪い事をして、母にいつもの折檻をされただけの事だから。 『……何って?』──僕は、母を庇った。 なにもされてないと、嘘をついた。 部屋を出る時の、不穏な母の表情。 母が窮地に立たされているのは、幼い僕にもひしひしと伝わっていた。 一方で、目の前にいる男性の笑顔は、何処か不自然に見えて……とても気持ちが悪かったのを覚えている。 『強いショックを与えられた後に優しくされると、生命を救われたような気がして特別な感情が芽生えるんだって』 『人質達が犯人を庇って、銃を持って警察官に立ち向かったそうだよ』 母に優しくされた記憶はないから、何とも言えないけれど…… あの時の行動は、ストックホルム症候群の症状だと思う。 悪しき根源である母を憎み、離れる事で……僕は、その呪縛から解き放たれ、強くなった気になっていた。 ……でも、本質は何も変わってなんかいなかった。 このストックホルム症候群というものは、僕の中に眠ったまま……ずっと巣くっている。 何かのキッカケで豹変し、容赦なく相手を痛めつけるハイジは………その性が、何処となく母と似ている。 ましてハイジは、底無しに優しくて繊細な一面を持っている。 このままでいい訳がない。 このままでいたら、ハイジも僕も、駄目になってしまう。 僕がハイジの|性《さが》を刺激し、ハイジが僕を破滅の道へと導く。 それを、ハイジが喜ぶ筈がない。 僕にナンパしてきた男達を殴り殺してしまったハイジは、酷く怯えてて……酷く、震えていた。 その時の思いを、いつかきっとさせてしまう。 だから、離れなくちゃいけないんだ……

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