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第156話

「……五十嵐」 背中にそっと声を掛ければ、神妙な面持ちの五十嵐が振り返った。 目が合う寸前、顔に笑顔が貼り付けられる。 「俺の事はいいよ。 それよりお前、菊地さんに随分と気に入られたみたいだぞ。このままだと、家に帰して貰えないかもな」 「……」 「………どうするんだ、工藤」 とうするもこうするも…… 僕には、どうにもできない── 吹きすさぶ風に身を委ね ただ、散り去ってゆくだけ…… 冷めた瞳を向ければ、五十嵐が眉根を寄せ、意を決したように口を開く。 「……なぁ……俺と、逃げないか?」 しん、と静まり返った部屋。 五十嵐が出て行ってから、初めて一人きりになったのに気付く。 体を起こし、クッションにもたれかかりながら、カップスープを少しだけ口に含む。 化学調味料独特の味と鼻から抜ける臭いに嫌気が差したが、細胞のひとつひとつに染み渡り、久し振りの食事に体が喜んでいるように感じた。 食道から胃の中までが、じんわりと熱い。 冷え切っていた体が、雪解けを迎えた春のように緩み、少しだけ活力を取り戻していく。 とろりとしたコーンスーブ。 カップを両手で包み込み、鮮やかな色をしたそれをぼんやりと見つめる。 ……確かあの時は、インスタント雑炊だったっけ…… ふと、ハイジに看病された日の事を思い出す。 「……」 ──あれから、色んな事があった。 ガールズバーで見かけた、スーツ姿の竜一。その竜一が、親しげに吉岡の背中に手を回し、店から出ていく。 吉岡とは、単なるビジネス関係なのかもしれない。 暴力団関係者の竜一がアパートを借りられたのも、そういう手続きを吉岡に依頼したからだとモルが言っていた。 ガールズバーで、恐らく僕の存在を竜一に知らせなかったのも、吉岡が馴れ合いよりビジネスを優先するタイプだからかもしれない。 ……でも、だからって…… わざと僕に見せ付けるような事をしなくても── 飲む気がしなくなり、コンドームが置かれたベッド棚にコーンスープを置く。 身を丸めて横向きになり、ケットを引っ張り上げて首元まで被る。 ……だけど、もしあの時…… 吉岡が竜一に、僕の存在を話していたとしたら…… わざと気付かないフリをして、竜一が吉岡の背中に手を回したのだとしたら…… そんな悲観的な考えに支配される。 竜一に限ってそんな事はないと思いながらも、ずっと拭えない不安があった。 囚われた事を知らなかったモル。 繋がらなかった、モルからの電話。 車内で吉岡に見せられた、携帯の動画。 その点と点を繋げてしまえば、最悪な想定へと導かれてしまう…… 「………」 ……竜一はもう、僕を見限ってしまったのかもしれない…… あのアパートは、既に引き払われていて……僕の居場所なんてもう………何処にもない……のかも……

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