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第234話

「……やっぱり逃げないんだね、姫は」 含みのある言葉。笑顔。 僕から視線を外し、カウンターチェアーを少し回転させながら店内をぐるりと見回す。 「逃げずに、ずっと律儀に抱かれちゃってるんだ。……ハイジと類くんの為に」 「……」 「それとも。菊地さんに優しく絆されて、惚れちゃった……とか?」 緩められた口元。楽しそうな瞳。 その瞳の奥が暗く濁り、不屈な笑みを浮かべなら再び僕を捕らえる。 人懐っこい笑顔の仮面を貼り付けているものの、その瞳の鋭さは隠せない。 「そういえば、前にも話したよね。──少女誘拐飼育事件のこと」 通称、少女籠の鳥事件。 それは雨の日……性交目的で、中年の男性が合羽を着た通行人の少女を脅して捕まえ、自宅に連れ込んで直ぐ、無理矢理性行為に及んだ。 しかしその後は、監禁しながらも少女を寵愛。彼女の望むものなら何でも買い与え、機嫌を取りながら優しく接する。 やがて少女は、その中年男性に恋愛感情を抱くようになり、手枷足枷を外され一緒に外出するようになっても、逃げるという選択肢を持たず、常に彼の傍に寄り添うようになった。 まるで……中年男性という籠の中で、飼育される鳥のように── 「中年の男が逮捕された後も、その少女は暫く相手を庇っていたそうだよ。……何でだか解る?」 「……」 「……頭悪いね、姫は」 組んだ腕をカウンターに付き、顎を乗せ、吉岡が下から僕を見上げる。 「……ストックホルム症候群、だったからだよ」 「……!」 ──そうだ。 ガールズバーで会った時、ストックホルム症候群の話を聞かされて…… その時、日本でも似たような事件があったって…… 僕の反応を見た吉岡が、唇の片端をクッと持ち上げる。 「……」 まさか…… 僕が逃げずにいるのは──寛司を好きだって思う気持ちは…… ストックホルム症候群のせいだって、言いたいのか……?! 敵意を剥き出しにして、吉岡を睨みつける。 そんな訳ない……! だって僕は、ずっと寛司の姿を見てきて…… その上で、好きになったんだ…… 囚われたからじゃない。 最初こそ乱暴に扱われたけど…… 暴力の後に優しくされたからでもない。 ストックホルム症候群なんかとは、全然違う……! 声には出さず──でも感情を剥き出しにして吉岡を見据えれば、突然、吉岡が可笑しそうに笑い出した。 「……本当、姫は解りやすいね。 しかも学習能力がなさ過ぎて、感心するよ」

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