236 / 558
第236話
「……やっぱり逃げないんだね、姫は」
含みのある口調。ニヒルな笑顔。
僕から視線を外し、カウンターチェアーを少し回転させながら店内をぐるりと見回す。
「逃げずに、ずっと律儀に抱かれちゃってるんだ。……ハイジと類くんの為に」
「……」
「それとも。菊地さんに優しく絆されて、惚れちゃった……とか?」
緩められた口元。楽しそうな目付き。
その瞳の奥が暗く濁り、不屈な笑みを浮かべなら再び僕を捉える。
人懐っこい笑顔の仮面を貼り付けてはいるものの、その眼の鋭さは隠せない。
「そういえば、前にも話したよね。──少女誘拐飼育事件のこと」
通称、少女籠の鳥事件。
それは雨の日……性交目的で、中年の男性が合羽を着た通行人の少女を脅して捕まえ、自宅に連れ込んで直ぐ、無理矢理性行為に及んだ。
しかしその後は、監禁しながらも少女を寵愛。彼女の望むものなら何でも買い与え、機嫌を取りながら優しく接する。
やがて少女は、その中年男性に恋愛感情を抱くようになり、手枷足枷を外され、一緒に外出するようになっても逃げるという選択肢を持たず、常に彼の傍に寄り添うように。
それはまるで、中年男性という籠の中で、飼育される鳥そのもの──
「中年の男が逮捕された後も、その少女は暫く相手を庇っていたそうだよ。……何でだか解る?」
「……」
「……頭悪いね、姫は」
組んだ腕をカウンターに付き、顎を乗せ、吉岡が下から僕を見上げる。
「ストックホルム症候群、だったからだよ」
「……!」
──そうだ。
ガールズバーで会った時、ストックホルム症候群の話を聞かされて……
その時、日本でも似たような事件があったって……
僕の反応を見た吉岡が、唇の片端をクッと持ち上げる。
「……」
まさか……
僕が逃げずにいるのは──寛司を好きだって思う気持ちは……
ストックホルム症候群のせいだって、言いたいのか……?!
カッと頭に血が上り、敵意を剥き出しにして吉岡を睨みつける。
そんな訳ない……!
だって僕は、ずっと寛司の姿を間近で見てきて……その上で、好きになったんだ……
囚われたからじゃない。
最初こそ乱暴に扱われたけど……暴力の後に優しくされたからじゃない。
ストックホルム症候群なんかとは違う!
全然違う……!
声には出さず──でも感情を剥き出しにしながら吉岡を見据えれば、突然、吉岡が可笑しそうに笑い出した。
「……本当、姫は解りやすいね。
しかも学習能力がなさ過ぎて、感心するよ」
ともだちにシェアしよう!

