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第239話

「明日の朝、駅まで送ってやる」 「……」 いきなりの事で、理解できない。 頭の中が真っ白になって……上手く働いてくれない。 動けない身体。……呼吸も上手くできなくて。さっきから吸ってばかりいるような気がする。 立ち眩み──光を失い、目の前がぐにゃりと歪んで……時間が逆行していくような……妙な感覚が襲う。 「俺から言う事は、以上だ」 そう言い捨て、スッと目の前を横切る。 僕に触れる事も無く、目もくれずに。 ──どうして。 何で急に、突き放すの……? どうして簡単に、捨てようとするの……? もう……向き合っても、くれないの……? 部屋へと戻る寛司の背中。 追い掛けようと右足を前に出すものの、左足が上手く前に出てくれず……縺れて転びそうになる。 「……」 僕のした事は、そんなに酷い事だったの……? 僕を見限る程── 離れていく背中。 そこからふわりと香る……寛司の匂い。優しくて温かくて、縋りつきたくなる。僕の胸の奥を、ギュッと柔らかく締め付けて。 足元が、ぐらくらと揺れる。 目の奥が、熱い──走馬灯のように脳裏に現れては消える、ここで過ごした日々。 僕の、居場所── 寛司の傍にいたい。 離れるなんて、嫌だ…… 「……や、だ……」 感覚のない指先。 必死に追い掛け、その手をぐんっと伸ばす。 やっとの事で寛司に追い付き、ノースリーブの裾辺りを掴んで引っ張った。 また拒絶されるかもしれない──そう脳が処理判断した瞬間、少しだけ身体に緊張が走った。 ……足が、止まる。 呼吸を整え、徐に顎を上げ、寛司の背中を見る。 ギュッと指に、力を籠めたまま。 「なら聞くが。……お前がここに来た目的は何だ」 「……」 「俺はもう、充分にお前を抱いた。……契約は、終了だ」 僕の答えを待たず。振り返りもせず。寛司がバッサリと言い放つ。 いつもなら、頭を撫でて、優しく抱き締めてくれる──愛しい手。 その手が触れられる事無く、自身の服を掴んで強く引っ張り、僕の手を拒否した。 ズキン…… 心臓が、抉られる。 立ち直れない程に、深く── 「……」 まだ、感覚の戻らない手。 それでも……怖ず怖ずと伸ばし、もう一度寛司の服を掴んで軽く引っ張る。 今度は、拒絶されなくて。何だか酷く安堵して。腕を伸ばし、寛司の背中にそっと抱き付いた。 「……やだ……」 喉奥から声を絞り出す。 込み上げそうになる涙を、ぐっと堪えながら。 見捨てないで。 僕にはもう、寛司しかいない。 他に帰る場所なんて、もうないのに…… 手が、震える。 その僕の左手首を掴み、ゆっくりと寛司が振り返る。 縋りつくように見上げれば、寛司の右手が僕に、スッと伸ばされた。

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