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第357話 箱庭
×××
「下の階にいる輩に喰われたくなければ、ここで大人しくしてるんだよ」
右側のベッド端に座る屋久が、僕に手を伸ばして頬に触れる。
窓から差し込む光を背に受けているせいで、表情がよく見えない。だけど、意地の悪い声とは裏腹に、その手つきは何だか優しい。
「──っ!」
「はい、ここ押さえてて」
ポニーテールに、太くて長いつけまつげの派手目な女性が、僕の左腕から点滴用の針を抜く。
看護師……なんだろうか。手際よく消毒液の染みこんだ綿を取り外し、絆創膏をぺたんと貼る。
「ありがとう」
「礼ならいらない。それより……」
「例のヤツだね」
「……うん」
軽く溜め息をついた屋久が、僕から手を離し背を向ける。
「基泰 には話をつけておくから、そっちで受け取って」
ピピッ……
鞄に医療器具をしまっていた彼女が、携帯を取り出して画面を確認する。
「……ありがと」
「礼ならいらない、だろ?」
「……」
「M 、無茶はするなよ」
「………解ってる」
お節介だとばかりに言い放ち、彼女が携帯をポケットに仕舞う。
「基成 こそ」
「……はいはい」
鋭い目付きの彼女に、屋久が貼り付けたような笑顔を向けた。
僕の唇に軽くキスを落とした後、彼女と共に屋久が部屋を出て行く。
まるで、お出掛けのキスをする恋人同士のようで……何だか居心地が悪い。
「……」
点滴からは解放されたものの、ここから自由に出られる訳じゃない。
多分、今までのように外に連れ出される事も。
……でも、それでいいのかもしれない。
ここに閉じ籠もっていれば、屋久の言う通り、誰も傷付けない。
諦めにも似た溜め息を、ひとつつく。
やけに眩しい小窓。
ベッドからそっと足を下ろし、揺れるレースカーテンへと近付く。
サッシに両手を掛け、外の景色を眺める。……と、以前住んでいたアパートの部屋が見えた。
懐かしいベランダ。
あの日──確か、突然雨が降ってきて、急いで洗濯物をしまったんだっけ……
ガス点検に来た人に襲われたのが、もう遠い昔のよう。
竜一と過ごしていたあの穏やかな日々を思い出すと、今でも胸の奥が痛む。
嫌いで、別れた訳じゃない。
嵐と共に襲来した、大きな渦に突然巻き込まれ……こんな事になってしまった。
数ヶ月前までは、あそこにいたのに──今は、遠い。
もう二度と、戻れないんだ。
竜一と過ごした、あの日々に。
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