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第358話

部屋の隅にある、二人掛けのソファ。 そこに、ケットを掛け身体を丸めた蕾が静かに眠っていた。 その前にある長テーブルに、一枚の紙切れがある事に気付く。 “れいぞうこ ごはん” 拾い上げてみれば、まるで園児が書いたような、たどたどしい文字。 「……」 部屋の入り口から遠い場所──箱型の取って付けたようなバスルームの隣にある、小さな対面キッチン。 それはとても簡易的で、壁際の棚に並んだお酒、洒落たカウンター、ムーディーな雰囲気の照明がある事から、それ目的の為に作られたスペースなんだろうと察した。 カウンター横に置かれた、背の低い冷蔵庫。くすんだ色をしたそれは、もう余り使われていないんだろう。 しゃがんで中を覗いて見れば、そこにはコンビニ袋に入った冷製パスタがあった。 お茶のペットボトルもついでに取り出し、三人掛けのカウンターにつく。 プラスチックの蓋を開け、割り箸を取り出す。バジルソースがトマトや麺に絡み、ハーブ特有のいい香りがする。 美味しそうとか、食べてみたいとか感じたのは……何時ぶりだろう。 カットされたトマトを箸で摘まみ、口に含む。酸味が口に広がって……身体の細胞ひとつひとつに染み渡っていくのを感じる。 「………」 そういえば。 蕾は『黒くて長いもの』を避けないと、まともな生活ができないと言っていた。 だから、蕾にとってのこの空間は、とても安全で快適で、自分らしくいられる唯一の場所なんだろう。 それは、僕も同じ。 人間社会の柵から断絶されたここは……屋久の言う通り、僕が望んでいた空間でもある。 ──安全で、快適…… そう思えば、蕾と僕は、何処か似ているのかもしれない。 加害者と被害者、という立場の違いはあるけれど。 「……」 バジルソースの絡んだサイコロ状のチーズを箸で摘まみ、口に入れる。 ハーブ独特の香りと、特徴的なチーズの臭いと食感が、口の中で混ざり合う。 思い返せば、まだ僕の腕に管が繋がっていた頃──蕾は動けない僕に、おにぎりを押し付けてきた。 それは、とても不器用で、一方的なやり方だったけど……食べさせてあげようと、蕾なりに気遣ってくれたんだと今になって思う。 根は優しくて、良い子なんだろう。 でも、蕾が近付くだけで、あの忌まわしい夜の記憶が蘇り、怖くて勝手に身体が震えてしまう。 あれは病気のせいで、蕾自身は何も悪くないんだと、頭では解っていても─── 「……」 今まで、どうやって生きてきたんだろう。 加害者でありながら、被害者でもある蕾の心に……まだ壊れていない部分はあるのだろうか。

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