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第369話

その瞬間──否応なく思い出される、あの忌まわしい夜の出来事。 突然前触れもなく襲われたからか、身体があの日の恐怖を覚えてしまっている。 硬直する身体。痺れて震える指先。すぅっと寒くなる背筋。 だけど、それと同時に感じる……親近感。 ……蕾は、どうなんだろう。 僕を……どう思ってるんだろうか。 ガッガッ 手前に置かれたスプーンも取らず、いきなり手掴みでソーセージを頬張る。 「……」 背中を丸め、顔を更に近付け、まだ冷めていないスクランブルエッグを片手で摑み、ぐちゃぐちゃと音を立てながら口いっぱいに頬張る。 それはまるで、野獣のようで……背格好や顔立ちが良い分、そのギャップに驚かされる。 「……」 僕の視線に気付いたのか。黒眼だけを此方に向け、僕と目が合った瞬間──手や口の動きが止まる。 脅えるように僕をじっと見据え、警戒しているかのよう。 「……」 「………口に、合うかなって、思って……」 声を掛ければ、瞼を更に大きく持ち上げた蕾が、こくこくと小さく頷く。 「スプーン、使ってみたら……どうかな……」 呟きにも似た声。酷く小さくて自分でも驚く。 自分のスプーンを拾い上げて構えて見せれば、蕾が汚れた手を広げた。 ぼと、ぼとっ…… 皿の上に落ちる、握り潰されてぐちゃぐちゃになった食べ物。 慌ててテーブルにある手拭きを取り、蕾の手を拭う。 「……」 触れる、手と手。 あんなに恐怖を感じていたのに…… 温かくて……僕と同じ。 不思議と、怖くない。 丁寧に拭きながらチラッと見上げれば、蕾の口の周りがトマトの汁で汚れていた。 思わず、片手を伸ばす。 目を見開いたまま、僕の行動をじっと見つめる蕾。 その口元に、そっと触れる。 瞬間、電気でも走ったかのように、蕾の肩がビクンッと小さく跳ね上がるものの……逃げようとはしなかった。 ……だけど、酷く怯えてる…… 「……」 「……」 少しだけ顔を近付け、汚れた口元を確認する。口の端に当てた親指の腹。そこから下唇を通り、反対の端までをそっと滑らせて拭い取る。 その様子を、微動だにしない蕾がじっと覗っていた。 「……あ、」 何かを言いたげな様子で、突然蕾が口をパクパクと動かす。 だけど次の瞬間──顔を真っ赤に染め、弾かれるように椅子から立ち上がる。 「………あ、あ……あぁ、……」 その声が、酷く震えていた。

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