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第538話

──五十嵐。 瞬間。脳裏を過ったのは、苦しい心情を隠そうとする満面な笑顔。 首輪、鎖、裸、四つん這い──深沢の事務所で見た、人としての尊厳を剥奪された姿。 でも。それでも僕を庇おうと、密かに合図まで送ってくれて…… 「……」 ザァー…… 脳裏に響く、降り続く雨音。 滞在先のホテルから次の目的地へと向かう途中、一度は僕の手を取ろうとしてくれた。だけどそれは、屋久の指示で。結局……長いものに巻かれ、最後には僕の手を離した。 あれから五十嵐がどうなったかなんて、深く考えもしなかった。ヤクザの駒になると言っても、今までとそう変わらないと思ったから。 だから、あんな──犬みたいな格好をさせられるなんて…… 「……五十嵐さん、ッスよね」 運転席から降りたモルが、黒服姿でビニール傘を差す男の背中に声を掛ける。 「覚えてませんか? 俺の事」 声に引っ張られるようにして、男が振り返る。オールバックに金縁眼鏡。ガラの悪いゴールドのネックレス。一見すると見逃してしまいそうな程に変貌し、モル自身見間違えたかと焦る。 「……蕾先輩の、弟……?」 「そうッス。でも俺は、兄とは生き方も価値観も違うんっすよ」 「………どっちにしろ、俺を『狩り』に来たって訳だろ?」 力無く肩を竦めた五十嵐が、モルを見つめる。 「狩り?……俺はただ、姫を助けたいだけッス」 「……姫……?」 その名が出た途端、五十嵐の顔色がサッと変わる。 「まさか……、いま姫が、菊地さん殺しの容疑を掛けられて、命を狙われてるの……知らないんっすか?」 「──えッ、!」 濡れた赤い前髪。 その先に見える五十嵐の瞳が、大きく見開かれる。 「姫は今、何処にいるんッスか」 「……」 「もし俺が信用出来ないっていうんなら、電話でもいい。……姫と、話をさせて下さい」 一歩、また一歩……と近付き、五十嵐を見据えながら食い下がる。 「……どうして、そこまでしてさくらを……」 眉根を寄せ、訝しげな眼を向けた五十嵐が口を開く。 「姫は……俺の『希望』なんッス」

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