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感情の赴くままに4
「いつ…結婚を?」
「私が18歳のときに、結婚をした。25歳で離婚して、住んでいた梓の屋敷を追い出され、裸一貫でここまでやってきた」
「元奥さんを見返したくて?」
「違う。私はこういう生き方しか知らない。だから知っている生き方を歩んできただけだ。いつか、梓にぶつかることはわかっていた。わかっていたが、私はそれ以外の道を知らない」
道元坂が、首を横に振った。前髪がさらっと左右に揺れる。
俺はそっと道元坂の手を握ると、己の唇を濡らした。
「道元坂って意外と不器用なんだな」
「そうかも、しれない」
「なあ…離婚の理由ってそれだけじゃねえだろ? 足を怪我したからって…」
「本当にそれだけだ。私は梓にとって、一介の兵士にしか過ぎないんだ。組織の中で、一番優秀で、将来の見込みのある私だったから、夫にした。当時の俺は、組織のトップである梓に気に入られたくて必死だった。どんなことも目をつぶってきたし、どんな仕事だろうが、手を汚してきた。だけどたった一回の失敗で、私は呆気なく外に追い出された。弁解の余地も、次のチャンスも与えてもらえなかった」
「辛かっただろ?」
「いや。やっと解放されたって気がして、心が軽くなった。一体、自分は何に縛られて生きてきたのか。意味のない人生を送ったまま、人生を遣いきらなくて良かったと嬉しくなった。すぐに私を拾ってくれたヤツもいたしな」
道元坂がにやっと笑うと、ぎゅっと俺の手を握り返してくれる。
「生きるべき道を見誤らなくて良かったと思ってる。梓の鳥かごの中で生きるのは、もう御免だ」
「そっか。なら、良かったな」
「ああ。良かった。私は今、すごく充実している。智紀のおかげだ」
「は? 俺、何もしてないけど。つうか、迷惑ばっかかけていると思うけど?」
「いや、そうでもない。お前がいたから、私はここまで来れたんだ」
何を言っているのだろうか? 俺と道元坂が初めて合ったのは、三ヶ月前で、兄貴が死んだ後だ。
俺は眉間に皺を寄せると、小首を傾げた。
「覚えてないなら、それでいいんだ。一度だけ、私は幼いお前に会ったことがある」
「そうなのか?」
「ああ。昔の話だ」
ふっと道元坂が口元を緩めると、視線を窓に向けた。穏やかで、優しい表情の道元坂を見ながら、俺は眠りに落ちた。
朝食のあとに優雅にブラックコーヒーを飲んでいる道元坂が、ちらっと俺を見やる。
「どうした?」
ダイニングテーブルに手をおいて、腰をさすっている俺に声をかけてきた。
「『どうした?』じゃねえだろ! 朝から盛ってんじゃねえよ。朝4時に、俺を叩き起こしておいて…何、ひとりですっきりした顔でコーヒーを頂いちゃってるんだよ」
「すっきりしたんだ。それらしい顔をしていても、いいだろ」
「良くないだろ! 俺はやっとの思いで朝食を作って、あんたの飲むコーヒーをいれたんだよ」
「大丈夫だ。あとはゆっくりしていればいい。私が仕事に行っている間は、自由に使っていい」
「何をどう、自由に使っていいんだか」
「この家にあるもの全てだ。ろくな物はないと思うが」
「あっそ。なにもねえのかよ」
「欲しいものがあるなら、リストして私に見せろ。検討し、購入しよう」
「……なんか、言い方が社長って感じなんだけど」
「私は社長だ」
「はいはい」と俺は手をひらひらとあげると、床に座り込んだ。
腰に全く力が入らない。道元坂じゃねえが、車椅子か杖が欲しいくらいだよ。
「こういうとき、どう言えばいいのだ?」
道元坂が、まっすぐに俺の顔を見て、質問してきた。
「一緒に買いにいくか?…とかじゃねえの? 俺、金持ってないから、道元坂が俺のパトロンになってくんねえと買えねえけど」
「なら、一緒に買いに行くか?」
「いいのか?」
「智紀が欲しいものが私にはわからない」
「んじゃ…仕事が終わったら、行こうぜ。どっかで待ち合わせする?」
「いや。一旦、ここに戻ってくる」
「そっか。じゃ、待ってる」
俺は腰に気合いを入れると、立ち上がった。よろよろしながら、俺はキッチンに入った。
「智紀」とダイニングから、道元坂の声が聞こえてきた。
「なに?」
「私が帰ってくるまで、絶対にドアは開けるなよ。梓の手下が、私の部下だと偽ってここに来る可能性がある。ライか私以外の人間だった場合は、絶対に出るな。電話も同様だ。私か、ライ以外の電話は出るな」
「わかった。道元坂は、ライさんを信頼してるんだな」
「そうだな。ライは智紀を裏切るマネは絶対にしないからな」
「え?」
「いや、何でもない。私は仕事に行く」
「あ、ああ。行ってらっしゃい」
俺はキッチンから顔を出すなり、道元坂にキスをされた。下唇を吸い上げるように、ちゅっと音を立ててキスをする道元坂に、身体の芯が熱くなった。
ずりぃ…なんで道元坂はこんなにキスがうまいんだよ。
「ああ、何を買おうかなあ。キッチン用品もいくつか揃えたいし、食器もなあ。あとは家で遊べるゲームを欲しいなあ。観葉植物もいいよな。あとは…ベランダで野菜とか育ててみたいし。うーん、悩むなあ」
俺は道元坂の隣で、ブツブツと呟きながら大型スーパー内を歩いた。
道元坂だけでも人目を惹く男だが、そのまわりにいるボディガードの真っ黒スーツの男の数に、スーパーにいる主婦層たちの視線を一身に集めていた。
俺は気にしないようにして、腕を組み、首を傾げて唸り声をあげる。何が欲しいと言われても、迷ってしまう。
何でも買ってくれると言われると、何が一番欲しいのかわからなくなる。
大型スーパーは楽しい。いろいろなモノを売っていて、心がウキウキした。何を見ても、感動するし、面白いと思う。俺はいろいろな売り場に行っては、一人ではしゃぎまくった。
道元坂は、何が面白いのか理解しておらず、始終無表情だったが、文句を言わないし、『帰ろう』とも言わないから、俺の趣味に付き合わせた。
大型スーパーに3時間もいたくせに、買ったものと言えば……。俺専用の箸と、マグカップと茶碗とお椀だけだった。
道元坂は、好きなものを好きなだけ買っていいって言ってくれたけど。なんかさ、庶民の生活に慣れ過ぎてて、一度のたくさんのモノを買うのは、ちょっと気が引けた。
むしろ駐車場代のほうが高くついた…ぽい。俺は買った品物が入っている紙袋を膝の上に乗せて、鼻歌を歌った。
実用品を買ったにしろ、新しいものを買ったと思うと心がほくほくする。
家に帰って、夕食を作ったら、買ったばかりの茶碗で炊きたてのご飯を盛って…なんて想像しただけで、お腹が満腹になったような気になる。
「智紀、今夜は外で食べるか」
「え? 俺、作るよ?」
おニューな茶碗を使わせろよ。使いたいんだから。
「予約してあるんだ」
「あ、そういうことなら。別にいいけど」
「たまには外でもいいだろ」
「たまにって…俺が来てまた1日しか過ぎてねえじゃん」
「恵にもいろいろとお付き合いっていうのがあるんですよね? 仕事上のお付き合いっていうのが。家で食べたくても、会社の経営のために…」
助手席に座っているライさんが、前を向いたまま、教えてくれた。
「そうなのか?」
「何だっていいだろ」
道元坂がぷいっと横を向いた。
「なんだよ。きちんと答えてくれたっていいじゃんか」
「シェフの腕はいいから、智紀も満足するはずだ」
道元坂が、それだけ言うと窓に視線を向けて、口を閉じてしまった詳しくは言いたくないサインだ。
俺も口を閉じると、膝の上にある紙袋をぎゅっと抱きしめた。
明日の朝食では、買った食器を使えるかな?
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