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誰かに決められたルール

―恵side― 『ねえ、恵。もっと苦しい顔をわたくしに見せて。わたくし、恵の苦痛に歪む顔を見ると、激しく抱かれたくなるの。だから…わたくしを満足させるために、もっと苦しんで』  苦痛とは何だ?  苦しむとは…どういうことだ? 『恵、わたくしとの子を殺して。泣いてばかりいるあの子、わたくしは嫌いよ』  ガクンと膝から落ちる感覚で、私は目を覚ました。  夢、か。昔の夢を見るなんて、珍しいこともあるものだ。 「道元坂? 大丈夫か? 汗がひどいじゃないかっ」  キッチンで夕食の片づけをしていた智紀が、小走りで近づいてくる。  ひどく心配している表情だ。智紀は少し気が小さすぎる。私を心配しすぎている。 「海外出張でしばらく智紀に会えなかったから、夢の中で一運動でもしたんじゃないですか? パンツ、洗うの大変なんだから、精液で汚してませんよね? 誰が洗うって、智紀が洗うんですから。手間をかけさせるようなことはしないでくださいよ」  ダイニングテーブルでくつろいでいるライが、しれっとした顔で口を開く。  こっちは、心配という感情がなさすぎだ。 「ただでさえ、毎日の家事で手が荒れてるんですから」 「ライさん、いいんだよ。家事は俺が好きでやってるんだから」  智紀が指先のヒビ割れが目立つ手をぱっと隠しながら、私の隣に座った。 「ワイシャツも汗でぐっしょりじゃないか。着替えて来いよ」 「いい。平気だ」 「平気じゃないだろ。顔色も悪いし、熱が出たらどうすんだよ」 「恵が熱ねえ。見てみたいかも…弱ってる姿」  ライがクスクスと笑う。  私はびくっと勝手に身体が反応した。 「道元坂?」 「何でもない」 「何でもなくないだろ!」  智紀のまっすぐな視線に、私は深い口づけをした。 「んっ、んー、んんぅっ!」  はぐらかそうとする私の行動に智紀が、怒っているようだ。  バシバシと私の背中を殴っていた。だんだんと智紀の動きが大きくなり、膝が私の腹に入った。 「…くぅっ」  私は電撃が走る痛みに、顔を歪めて、蹴られたわき腹に手をあてた。 「道元坂? 俺、強く蹴り過ぎたか?」  智紀の表情がぱっと変わる。涙が出そうなくらい悲しい顔をしている。 「ちょっと失礼しますよ。智紀の蹴りにそこまで表情が変わるなんて、恵らしくない。出張中、何があったんですか?」  智紀と私の間に入ったライが、私のワイシャツを捲りあげて、血が滲みだしてきた傷口をあらわにした。 「な…ちょ…何なんだよ、この傷!」  ライの後ろから、智紀が目を丸くして声をあげた。 「刺し傷ですね。恵らしくない。前から刺されているなんて。傷口の大きさから、果物ナイフでしょうか?」  ライの冷たく鋭い視線が、私の心を読もうと探ってくる。  私はふっと口元を緩めると、ワイシャツで傷口を隠した。 「転んだだけだ」 「転んだ? 床に果物ナイフが突き立ててあったとでも言い訳するつもりですか?」 「まあ、そういうことだな」 「浮気ですか? 海外なら、僕たちの目を盗めますもんね。誰かとベッドとともにして、グサリ…とか?」 「…つうか! 治療が先だろ」  智紀が、ライの横から顔を出すと頬を赤くさせる。 「なに、ふっつうにシャツを元の位置に戻してんだよ! 怪我してんだから、消毒してガーゼをあてたほうがいいっつうの」 「平気ですよ、これくらい」  ライがけろっとした表情で答えた。  怪我しているのは私なんだが? 「それよりもきちんと説明できないほうが重大ですよねえ」  ライの眼球がぎろりと動き、私を睨んだ。 「まあまあ、ライさん。道元坂が言わないっつうのはさあ。言いたくないってことなんだし」 「智紀は大人すぎます。いけません。こういうのははっきりとしないと、僕は嫌いなんです。智紀が傷つき、陰で涙を流すのは目に見えているんですから」 ふんっとライが鼻を鳴らすと、私の傷口にわざとらしく手を置いて、体重をかけてきた。 「で? 理由は?」  ぐっとライの全体重が私の傷口に乗ると、居間にインターフォンの音が鳴り響いた――。

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