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第1章 3-夕暮れのひと時
[視点:仙崎千尋]
……白石ちゃんは俺に言ってくれた。
『何か、相談したいこととか聞きたいことある? 他の子に話せないことも私はちゃんと聞いてあげられると思うから』
たぶん本気で心配してくれたんだと思う。
……俺、嬉しかったよ。すげー嬉しかった。誰かに真剣に心配されたのなんて何年振りかな、とかって思ったりもしてさ。
でもさ、――――……喋れねぇって。
距離が近くなりすぎたのかな。仲良くなりすぎたのかな。
あんな優しい顔されたら、こんなこと言えるわけ無いよ。
***
午後の授業終わりによくある、気だるい雰囲気の教室の中で。
「いっ……てぇぇぇぇッッ!」
眠気に負けて机に突っ伏していた俺の腕に突如、ビリッと電撃をくらったかのような痛み。
思わず口から飛び出た悲鳴が教室内に響き渡ってたくさんの笑い声が湧き上がる。
がばっと起き上った俺は即座に自分の傷口の方を見ると、そこに人差し指を突き立てて笑う甲斐田がいた。
「甲斐田! テメーまじ許さねぇ! なに人の傷口押してんだよ!」
多分わからないであろう小さな涙を目じりに浮かばせて恨んだ視線を甲斐田に向けると、当の本人は楽しそうに言った。
「いやー、ヒロが白石ちゃんの所で叫んでるのすっげぇ面白かったぜ! なぁ飯塚!」
そう言いながら話を振られた飯塚は自分のメガネを拭きながら頷いた。(今さらだけど、飯塚は柄の入ったメガネをしているのが特徴だ)
「あぁ、あれはなかなかだった。だって白石ちゃんだって楽しそうだったじゃん」
すると今度は女子たちが話しかけてくる。
「ヒロが転んでる所あたしら見たよー! ちょーウケた!」
「なんか残念だったよねー、シュートは入ったのに直後にコケるとか」
「カッコよく決まりきらない所がヒロじゃん? そこがいいんだけど」
俺はその言葉を聞いてうんざりした顔をした。
「人の不幸を笑ってんじゃねぇよ……」
その様子を見かねて、今度は紗代が話しかけてくる。
「でもさぁ、そんなヒロも可愛いと思うよー?」
「紗代! おまえそれ全っ然フォローになってないからな!?」
そんな俺をよそに、周りのやつらは「可愛い」だのなんだのと言って笑顔で頭を撫でてきた。
こんなことされたって嬉しくねぇんだかんな!?
……、……ちょっとだけ嬉しいけど。
そんな会話をしていると。
「はーい、お前ら席に着けー」
クラスの担任が教室に入ってきた。これからようやく帰りのホームルームが始まる。
あー、やっと今日も終わるんだなぁ。一日って、俺にはまだ長い。
そう思いながらあくびをひとつして、またさっきのまどろみに溶け込む様に机の上に顔を伏せる。
なんだかまたうとうとしてきた。
単調な授業連絡は俺にとって子守唄にしかならない。……いや、基本的に授業に関することの大半は子守唄だけど。
でも今日に限って、そんな長ったらしい話の最後に目も覚めるような連絡があった。
「……で、最後にだが。松澤が海外に留学することになった。俺もついさっき聞いたから驚いたよ。だからお前らと一緒に授業を受けるのは今学期までだ。急な話であと数日しかないが、仲良くするようにな」
その言葉を聞くと共に教室中にざわめきが起こる。
……え、今なんて言った?
その動揺は俺自身にも強く余韻を残した。思わず閉じていた目を見開く。
……松澤が、居なくなる?
俺はすぐに上半身を起こして松澤の方を見るが、当の本人は自分の席に座って前を向いたまま、周りに対して特に反応することもなかった。
やっぱり灰色に見える。その……まるで魂っていうのか、心っていうの? それがここに無いのがハッキリ見てとれるようで、自分でもなんでこんな感傷的になるのか意味がわからなかったけど悲しくて仕方がなかった。
「……まじかよ…………」
無意識に言葉が漏れる。
この教室の中で唯一、俺と『同じ』かもしれないと思えた人間が、いなくなる。
そのことにどこか焦りのようなものを覚えた。
……なんだろう。
この世界に一人、取り残されるような感覚。
『置いてかれる』
そんな言葉が瞬時に頭に浮かんだ。
なんで?
なんでここまで大げさに考えちゃうんだ?
別に今までと変わりないじゃん。だってマトモに話しかけたことだってないんだし。
「…………」
……いや、違う。逆だ。
――――まだ一度も、ちゃんと話せてないんだ……。
少しだけでもいいから話してみたかった。
本当は、仲良くなってみたかった。
俺と『同じ』かもしれないと思ったのが勘違いかどうか、それできっとわかるから。
もしかしたら俺の空っぽになった部分を埋めてくれるかもしれないと思ったから。
*
――――――ガタガタガタッ
「ヒロ? 何ぼーっとしてんだよ」
甲斐田の声にハッとすると、ホームルームが終わって周りは帰り支度をしているところだと気付く。
「……あー、わりぃ。なんか疲れちゃってさ」
いつものクセで咄嗟に嘘をついた。
だけどそれに気づかない甲斐田はいつも通りにへらへらと笑う。
「お前サッカーに熱中しすぎたんだってー」
そこに飯塚も会話に加わった。
「……にしても驚いたよなぁ、松澤の。海外って……やっぱ秀才さんは違うよなぁ」親のコネか?
その会話を頭の中で聞き流しながら俺は松澤の方を見る。
「……ね、ねぇ松澤くん、留学ってどこ行くの……?」
遠くの席で松澤を数人の女子が囲んでそう聞いていた。俺はその様子になんだかムスッと無意識に顔を歪ませる。
はぁー、さっすが女子だな。ぜったい松澤のこと狙ってたやつらだろ。別に嫉妬なんかしてないし。……してないし。
そんなことを思いながらちゃっかり聞き耳を立てる俺。
松澤は自分の鞄にノートをしまっていた手を止めて静かに答えた。
「……確か、ヨーロッパのあたりだったと思うけど」
女子に対して素っ気ない返事をするその声音になぜか安心しつつ、その反面そんなあいつの返答を聞いて気分が落ち込む。
ヨーロッパ? はぁ?
それってどこらへんだよ!
地理の評価が二の俺に分かる訳ねぇじゃん、洒落てるところってぐらいしかわかんねぇよ。(注:地理の評価が一じゃなかったことは奇跡)
俺はしばらく押し黙った後に、
「……飯塚。ヨーロッパって国、どこ?」
真面目な声でそう聞いた瞬間、変な間があって。
「「ぷっ……ははははははは!」」
目の前の二人は一斉に吹き出して盛大に笑い出した。
「なっ……!? なんだよ、なんか変なこと言ったか!?」
甲斐田「変も何もおまえ……ホントに高校生かよ、まじ!」
飯塚「これくらい小学生でもわかるだろーが!」
そうしてひとしきり笑ったあと、まだ笑いをこらえきれてない二人は顔を見合わせて。
甲斐田「しかもこいつ、ヨーロッパを」
飯塚「『国』って!」
二人「「ははははははっ!」」
真面目に聞いたのに、こいつらは……。
俺はため息をついた。正直何に対して笑われてるのかもサッパリだけど。こいつらに対してって言うよりも、自分の頭の悪さが情けなく感じて気分が萎える。
「あー、あー! もういいもういい、だから笑うなって!」
俺が両手を振り回しながら会話を打ち消そうとすると、甲斐田が笑いながら肩を叩いてくる。
「わーるかったって! ヨーロッパはな、だいたい飛行機で半日かけて行くぐらいで、イタリアとかー……イギリスとか? とりあえずあそこらへんの国を指してんの。……だよな、飯塚?」
聞かれた飯塚も微笑しながらその問いにうなずいた。
「あぁ。たしかそのくらいだ。まぁ、かなり日本から遠いってことは確実だな」
俺は少し訝 し気に二人を見る。
「……、ホントか?」
飯塚「疑ってんじゃねーよ。お前が真面目に聞いてきたんだから、俺たちもそこまでからかうようなことしねぇって」
甲斐田「その通り。ここまで言ってんだから信じろよ、な?」
俺は二人を交互に見つめて、少しうつむいた。たぶんハタから見てしょんぼりしてるって気付かれてたと思う。
「……あぁ。ごめん、ありがと」
正直、どうしてか分からないけど落ち込んだんだよ。
ってか、こんな笑い話になるようなちょっとしたことでここまで落ち込む自分にもショックだった。
たぶん頭の良い松澤と自分の大きな違いを痛感したからかもしれない。
それほどに松澤がいなくなるって事が俺の精神を一気に脆くしたんだと思う。
……かなり遠い所に行くらしいし、きっともうこの先会うことはなくなるんだろうな。
そんなことを頭の中でぐるぐると考え込んでいると、少し間があってから甲斐田が提案した。
甲斐田「……なぁー、そんなことよりさ、帰りにどっか飯食いに行かね? 昼飯だけじゃ足りねーわ」
飯塚「賛成ー。ヒロはどうだ?」
いつもの調子で二人がかけた言葉に俺の意識が頭の中から離れると。
「……! 行く! 俺なんか甘いの食べたい!」
俺はすぐ顔を上げてその誘いに食いついた。
その途端に二人は明るく笑ってくれて、その瞬間に『あぁ、こいつらは落ち込んだ俺のことを気遣ってくれたんだな』って気付く。
飯塚「お前さ、俺ら飯食いに行くって言ってんのになんで甘いもんなんだよ」
「いーじゃん。俺さいきん甘いの食ってないんだもん」
甲斐田「これだから皆から『可愛い』っていじられるんだぜー?」
「うっせぇな、黙ってろ」
俺たちの中で声音や雰囲気がいつもの様子に戻っていく。それにホッとしつつ軽口を叩きながら教室を出て行くと。
「あぁ仙崎、ちょうどよかった」
……背後から聞こえた声で俺の頭の奥が一瞬にして凍りついた。
俺が強張った顔で振り向き、遅れて甲斐田と飯塚も振り返る。
甲斐田「あれ、ウチの副担が何の用っすかね」
その言葉の通り、目の前にはクラスの副担で社会科教諭でもある曽我 が立っていた。
五十代前半で、白髪交じりの髪と気味の悪い笑顔をしている男だ。
そして……俺がこの学校の中で一番嫌いなヤツ。
曽我「仙崎、放課後にちょっと残ってもらえんかな。また手伝ってほしいことがあってね」
「……っ」
『手伝ってほしいこと』
嫌だと、言いたかった。
でも頭の中にフラッシュバックする恐怖のせいで言葉が出ない。ギュッと無自覚に握った手に汗を感じる。
『仙崎……、お前は本当に可愛いな』
『お前が普段言うことを聞かないから、ここでお仕置きしてるんだぞ?』
『……ほら、もっと深く咥 えろ……。……咥えろと言ってるだろ!』
思い出すほどに、吐き気がしそうだった。
すると。
飯塚「せんせー、またですか? なんか最近よくこいつをこき使ってません?」
甲斐田「今日はこいつ、俺らと用事があるんで。また今度にしてもらえますー?」
俺の前に二人が立ちはだかる。
一瞬目の前の二人の行動が理解できなくて、言葉に詰まって。
「……甲斐田、飯塚……!」
後から理解したと同時に、嬉しくて胸にじんと熱が灯る。
こいつらは俺を曽我から守ろうとしてくれてる。そんな気がしてならない。
俺が裏でこの男に何をされてるかは知らないけど、こうして立ちはだかってくれてることが何よりも嬉しかった。
そしてさらに。
「曽我先生、仙崎くん何か用事あるみたいなので私たちがお手伝いしましょうか?」
横から会話を聞いていたらしい紗代とあずみが曽我に声をかけた。
曽我は予想もしなかった申し出に、俺の方と紗代たちの方を交互にちらちらと困った目で見やる。たぶん公衆の面前で言える『手伝ってほしいこと』の内容を考えてなかったんだろう。
そのとき、紗代はこっそりと笑って俺たちに手を振った。
『ここは任せて』
と、そう言ってる気がして、俺は目を見開く。
それを見て飯塚と甲斐田は一瞬目を見合わせて。
飯塚「よし。……ということで」
甲斐田「せんせー、さよーならー!」
そして二人が俺の肩を押して一斉に走り出した。
「うおっ!?」
突然のことで驚いて足がもたつく俺に甲斐田は小声でささやく。
「今はとりあえず走るぞ!」
その声を聞いたと同時に、俺は強張っていた表情が一気にくずれて笑顔になった。
「……おう!」
自分の後方で「あっ、待て、仙崎……!」と言いかけた曽我の声を振り切って、俺たちは全力疾走をする。
うわ、なんだろ、これ。なんの青春ドラマ? 泣きそうなんだけど。
「おれ、俺さっ……」
飯塚「あぁ? なんだ!?」
「今だったら俺、男も女も関係なくお前らに惚れちゃいそうだーーっ!!」
走りながら泣きそうな声でそう叫ぶ俺に、二人は爆笑する。
甲斐田「大げさ過ぎんだろーが、ばーか!」
飯塚「ちょっとマジやめて、この状況で笑わせんの禁止だから……。腹痛くなる」
そうしてそのまま校庭を抜け出して、学校を囲む塀に盛大にもたれかかった。
甲斐田「……っあ゛ー、足腰に来るわー……」
飯塚「親父くせーぞ、甲斐田……」
「お前らほんっと……とんでもねーことするよな……」
俺のつぶやきに二人は笑い出す。
甲斐田「っつーか、お前がぼけーっとしてるのが悪いんだろーが!」
飯塚「ほら、素晴らしい働きかけをした俺らに言うことは?」
飯塚のその言葉に「自分で言うかよ」と笑いながら、俺は全力で叫んだ。
「……お前らまじ最高!」
甲斐田「よっしゃ、成功の祝いも兼ねて美味いもん食べようぜ! どこ行くー?」
飯塚「値段的に手頃なマック?」
「それ結局いつものとこじゃんか……」
そして俺たちは息切れも治らないままに疲れでガタガタな体を引きずって歩き出す。
そりゃあここまで全力疾走だったんだから無理もないけれど、それでも俺たちはずっと笑ったままでいた。
俺は少し前をだるそうに歩く二人をまぶしそうに見つめる。
……よかった。こいつらと友達でいられて、本当に良かった。
***
「いやー、それにしてもあの時は紗代たちがナイスタイミングで来たのが勝因だよなー」
結局おなじみの店でいつものLサイズのコーラを飲みながら甲斐田は笑う。
「なぁ、あの瞬間惚れたろ? どうなんだよ、ヒロ」
俺の向かいに座る飯塚がニヤニヤして、わざとらしい素振りでメガネの鼻の部分をくいっと上に持ち上げた。
それを呆然と見ながら俺はバニラシェイクを一口。
「なにがー?」
「なにがって……紗代だよ、紗代! この前から言ってるけどさ、あいつ絶対お前に気があるって!」
「またその話かよー……。 いいか? 俺はあの時おまえら全員に惚れかけたの、全員に! わかるか?」
「いーや、わからん」
そこまで食い下がる飯塚に俺は軽くため息をついた。そこで閃き、少し悪そうな笑みをしながら聞き返してみる。
「……あー、わかった。そこまで聞くってことは、お前こそ紗代に気があんだろ! 違うか?」
俺の推理はわりと当たるんだ。……三割くらいの確立で。
すると飯塚はあり得ないと言いたげな顔をした。……あれ? 間違った?
「んな訳ねーだろ。 俺はもっと別にだな……」
「えっ!? 誰か好きなヤツいるの!? だれ!?」
飯塚の恋愛話なんて貴重もいいとこだ。驚いて身を乗り出す俺を一瞥して、謎の歌を口ずさんだのは甲斐田。
「いっつも真面目なあの子はー♪ たしかA組の副委員長ー♪」
それを聞いた瞬間に顔を赤くした飯塚は、手元にあったチーズバーガーの包み紙をぐしゃっと丸めて甲斐田に投げつける。
「ばっっか野郎! 言うんじゃねーよ!」
そこでピンと来た俺は飯塚に詰め寄った。
「え、まさかA組の島崎!? あのめっちゃ静かな子!?」
飯塚「おまえは声がでかいんだよ!」
「へー……」と微笑みながらまたシェイクを口に運ぶ。目の前では照れた顔で甲斐田とまだ言い争いをしてる飯塚。
飯塚と島崎かぁ……。飯塚は俺たちと一緒だと荒っぽいとこあるけど、きっと島崎の事ちゃんと大切に考えるし、ベストカップルかも。
飲み込むシェイクは、少し切ない味がした。
恋愛か……。実は紗代には悪いけれど、好きな子は今のところ居ない。でも、もし出来たら? 俺はこの身体で、現状で、その子に気持ちを伝えられるか? この先、大切に出来るか?
……頭に浮かぶ答えは、言わずとも知れていた。
きっと、報われない。
また一人、灰色になる。恋愛って、楽しかったっけ? 幸せだったっけ?
確かに彼女っぽい子が居たときは嬉しかったけど、それは「彼女がいる」っていう事実に嬉しかっただけなのかもしれない。
事実、俺はそういう子と手をつなぐまではいったけど、キスをするようないかにも『恋愛』っていう雰囲気が苦手でやんわりとかわしてきた。もちろんセックスなんてしてない。今は、できない。
そんな話で持ちきりになっていたところで俺のケータイの着信が鳴る。
「あ、ごめん外に出てくるわ」
甲斐田「おーう、いってらー」
そうして俺は恋愛話をまた始めだす二人を置いて一度店の外に出た。
……誰からだ?
なぜか、嫌な予感がした。
そしてケータイの画面に現れた「非通知」の文字に背筋が一気に凍る。
「……」
震える指で恐る恐る通話のボタンを押せば、さっき振りほどいた声が聞こえてきた。
「……仙崎、あいつらと楽しくやっているか?」
あの気味の悪い声。その声に怒りの色が含まれていることに俺は身がすくんだ。
曽我は、俺が命令に背けないことを知っている。
だから俺が何も返答をしなくてもそのまま用件を述べた。
「……三丁目に廃ビルがあるのは知ってるな。その横にある路地に来い」
「…………」
俺の中で、さっきまでの幸せが一気に絶望に染まる。
……そうだ。俺はどこにも逃げられない。報われないんだ。
その事実が心を灰色にする。
俺は無表情のままケータイを持つ手をゆっくりと下ろし、通話を切った。
そうしてこれから起こる悪夢を色々と予想して若干震える唇を噛みしめ、一呼吸置いてから無理やり笑顔を作って店に戻る。
店内では数分前までと変わらない心地いい時間が流れていた。
飯塚「いいか、甲斐田! これ以上他のやつにバラしたらマジでキレるからな!」
甲斐田「わーった、分かりましたって! ……おうヒロ、電話なんだって?」
俺はいつも通りのへらへらとした笑みを浮かべる。
「わり、親から買いだし頼まれちゃってさ。先帰るわー」
甲斐田「買いだしぃー? んなの、後でもいんじゃねーの?」
「俺の親父うるせーからさ、早く帰った方が後々楽なんだよ! ごめんな」
飯塚「そっか。でもま、久々に放課後遊べたし楽しかったよな。気を付けて帰れよ」
「おう! そんじゃ、また明日なー」
……嘘ついて、ごめんな。
***
「ちょっ……冗談だろ……!?」
「服を脱げと言ってるんだ、仙崎」
廃ビルの横の狭い路地に引きずりこまれた俺に、狂った命令が下る。
俺は後ずさりをしながら曽我の表情をうかがった。
……やばい、ダメだ。本気の目で言ってる。
「なに、言ってんだよ……。ここ、外だぜ!? もし誰かに見られたら……」
『あんただって』
必死になって俺が説得しようとすると、曽我は鼻で笑った。
「大丈夫だよ、仙崎。この通りを歩く奴らに良心なんてないさ。万が一みつかったとしても……好奇の目で見られるだけだ。可愛い顔をしてるお前がな」
「……!」
また一歩後ろに後ずさると、ガタッと音がして足に廃材がぶつかったことに気づく。
もう逃げられない。周囲の足元に視線を彷徨わせて退路を見つけられないとわかった瞬間に汗がにじむ。
足元から前へと視線を戻すと、曽我がすぐ近くまで迫っていた。
「……さっきはよくもあんな形で逃げ出したな。これくらいのお仕置きは当然だろ?」
その手が、怯える俺の服へと伸びる。
*
「……あッ、んぅ、んんっ……」
突き上げられる度に、堅く閉じた口から嫌な声がこぼれる。
恥ずかしくて悔しくて、涙があふれる俺の目は虚ろなまま足元の自分の服を見据えていた。汚い地面に、投げ捨てられている。ボロボロの俺みたいだ。
まさか本当に、外で脱ぐなんて思ってもいなかった。
もう何も身に着けてない。
廃材として置かれていたドラム缶に捕まって背後から犯されて、なんとか腕の力で立っているものの脚はガクガクして力が入らなかった。
「……ひっ!」
時折強く揺さぶられて、自分のモノの先端が冷たく錆びてザラついたドラム缶に擦れると体が跳ねる。
すると背後で笑った気配がして、俺はこいつの良いようにされていることがムカついてしょうがなかった。
自然と歯をぎりっと噛みしめる。
そしてそのあり得ないシチュエーションのせいでいつも以上に敏感に感じる自分がいるのも事実で、余計に苛立たしかった。なんで俺、感じてんの。
その時。
――――タッ……タッ……タッ……タッ……
ゆったりとした足音が近づいてくる。たぶん男のものだ。
俺と曽我は一度動きを止める。
ま、まじかよ……
心臓が自分の中でバクバクとすごい速さで体全体に響くように大きく鳴り始める。
一気に手のひらや足の裏に冷や汗がにじんで、背筋や膝の裏あたりがヒヤリとした。
もし……もしここで声をあげたら、気づかれてしまうかもしれない。
俺は恐る恐る背後の男の顔を伺うと目が合い、……次の瞬間に見せた気味の悪い笑みで即座に勘付いた。
でも、すでに遅かった。
直後に俺の中のある一点を肉棒が強く擦りあげる。
「んあッ!」
勘付くのが遅かったせいで一際大きな嬌声をあげてしまい、俺はハッとして口を押えた。
冷や汗がさらにじわっと出て、目の前が真っ暗になりそうになる。
そして一気に緊張が高まったせいで自分の後腔の収縮がヒクヒクと速まり、妙な快感を生んだ。
心の中でどんなに嫌がっても、体だけは反応してしまう。……悦んでいる。
そうだ……こいつは、誰かに見られることを最初からあまり恐れてない。
むしろ、――――見られるように仕向けている……?
俺は自分の腰を掴んで打ち付けてくる曽我の腕にすがって懇願した。
「やめ、ろ……! やだ、……あッ……いや、だ……!」
でも曽我は気味の悪い笑みをさらに濃くして、さらに揺さぶりをかける。
俺は羞恥で全身が熱くなり、感度も高ぶって理性が飛びそうになっていた。
「だめ、も、イくっ……やだ、あ、あ、あっ……」
抑えようとしていた自分の声が大きくなっていくことも止められず、限界へと追いやられていく。
そのとき。
ふと視線がいった路地の先で、足音の主と思われる中年の男がじっとこちらを見ていることに気付いた。
「いやぁっ……!」
『嫌だ』と叫ぼうとしたのに強い快感に翻弄されていてまともに口がまわらない。
そしてその俺の態度で見物人に気付いた曽我は狂ったように笑いながら、裸の体がその男にもっと見えるようにと俺の片脚を思いっきり上へと持ち上げてすべてを晒しあげた。
「嫌だあぁぁぁぁッ!」
俺は泣きながら叫ぶ。
はずかしい、もう、死にたい。
下半身が、白濁とした液体をこぼしている自分のものや、結合部が、見られている。
知らない男に、見られている。
「やだ、見んなっ……、もう、やめ……んあっ、あ、あ、あぁぁッッ!」
……そして俺は、はしたなく達してしまった。
*
……それから先はいまいち記憶がない。
ただ覚えているのは、知らない男のモノを咥えさせられたということと、あいつらの欲が収まってガラクタを捨てるように置いてかれたこと。
意識がようやくはっきりしてきた時、俺は泣きながらコンクリートの地面の上で服も着ないまま寝そべっていた。
そうして口の中に残る気持ち悪い苦い味で眉間にしわを寄せる。
そのまますっかり冷えた空気を吸い込み、冷たくなって震える体を抱きしめて。
ボロボロの体をなんとか起こしたら物陰に隠れるように服を着る。
しっかり脚が立てるようになるまで少し時間がかかって、何度も体勢を崩した。
「くそ……」
少し落ち着いて、俺は舌打ちをしながら一旦壁際に座り込む。
服を着る時に気付いたが、中に出されたはずの精液はほとんど掻きだされていた。
たぶん俺が気を失っている間にあいつが飲料水か何かで洗い流してったんだろう。
少しだけ気を利かせたつもりなのか? 情けか?
……笑わせんじゃねぇぞ。
俺は空虚な笑みを一度浮かべて、そして。
「……っ……くっ……、う……」
涙が、一気にあふれ出した。
昼下がりに甲斐田と飯塚と笑い合ってた時を思い出して、今の自分の現状との落差に心がえぐられそうになる。
浮かれていたからこそ、突き落とされた時の絶望はより深く、強く俺を痛めつけた。
死にたい、消えたい。もう、傷つきたくない。
嗚咽をこらえるのに必死で、両手や腕を使って何度も涙を拭う。だめだ、止まらない。
今まで何度も死にたいと願った。でもその度に、死ぬ恐怖に負けて生き続けてしまった。
自分は、しょうもねぇ死にたがり屋。
そして死ねない臆病者。
なんだ俺、かっこ悪ぃ……。
涙を止めようとして空を仰ぐ。
だけど。
……路地の狭い隙間から覗く夕暮れが、そんな俺を嘲笑っているように見えた。
***
カラスの鳴く夕暮れの道を、だるさでぐらつきそうになる両脚に力をこめて、ゆっくり歩く。
歩くたびに腰と脚の付け根に若干痛みが走った。思いっきり脚を広げたり体を折り曲げられれば、こうもなる。
制服の中に隠された汗ばんだ体も、口に未だ残る気持ち悪い苦みも。
この穢れた体のすべてが不快でしょうがない。
「口……ちゃんとゆすぎたい」
そう独りでにつぶやいて、帰り道の途中にある公園にふらっと入って行った。昔よく遊んだ公園だ。
そうして真っ先に水飲み場に向かい、何度も口をゆすぐ。
喉も乾いていたからそのまま水を飲み、少しでも口内の不快感を消そうとした。
そのとき一瞬脳裏によぎったのは俺を犯した教師の顔。そしてその場に居合わせた知らない男の顔も浮かぶ。
……いやだ、思い出したくもない。
そう思って目を固くつぶって眉を寄せながら口を手で拭う。
「はぁっ……」
ひとつ荒いため息をついて、落ち着くまで目を閉じたままでいた。
そうして目を開けると。
「ん……?」
自分のすぐ隣に泣きそうな目をした七歳ほどの少年が立っていた。
周りを見渡してもこの子以外に人は居ない。
俺は一瞬戸惑うが、すぐにしゃがみこんで少年と目線を合わせる。腰と脚が痛かったけど、なんとか耐える。
「どうしたー? なんで泣きそうな顔してる?」
できるだけ話しやすいようにと微笑を浮かべながらそう聞くと、その子はそれまで我慢していた大粒の涙をぼろぼろとこぼしながら近くの木の上を指差した。
「サッカーボール、とれなくて……」
俺がその指の先を目で追うと、確かにサッカーボールが木の枝に引っかかっている。
そんなに高いところではないけどこの子からしたら十分高いんだろう。
その子の手には身の丈に合わない、長い木の棒が握られていた。
たぶんそれを使って取ろうとしたんだな。
なんだか自分が小さかった時のことを思いだす。こんなこと、俺もあったな。
父さんに買ってもらったお気に入りのサッカーボールが木の枝に引っかかってしまって、なんとか取ろうと頑張っても取れなくて。
周りの友達は「もう帰らなきゃ」と言って公園の出口へと歩いていってしまって。
自分は平気な様にふるまって、「また明日な!」と笑顔で手を振りかえして。
……気づけば、公園にひとりぼっちで。
あの頃の俺は、一気に寂しさや不安がこみ上げるから、真っ赤な夕暮れの空が怖かった。
……この子には、そんな思いさせたくないな。
「わーかったわかった! 兄ちゃんが取ってきてやるからそんな顔するな! な?」
俺がそう笑ってその頭をポンポンと叩くとその子は涙を拭いながら頷いた。
さて、と。
俺は目の前に立ちふさがる木を前に、少し考え込む。
案外近くで見てみると、若干高いかな。いや大丈夫か。
もう俺はあの頃とは違う。
周りと比べれば身長は低いけど(あれ、自分で言ってて悲しくなるのはなんでだ?)、昔に比べて随分と伸びた。
木を登るにしても前は届かなかった所に足が届く様になっている。
「……ッ!」
低い木の枝に足をかけた時に、さっき無理やり犯されたところがズキッと痛んだ。
少し顔が痛みで歪む。
……このくらい、耐えろよ。男だろ。
そう心の中で自分をしかって、目線をさらに上に向けて足をかけていく。
そうして少し高い所まで登ってから、伸ばした手で叩くようにしてサッカーボールを落とした。
少年はそれを見て転がって行くボールをすぐに拾う。
俺はゆっくりと木から下りるとその子が駆け寄ってきて、まだ涙は止まっていないけどしっかりと俺を見つめて「ありがとう」と言った。
「どーいたしまして。 ……あ、ちょっと待ってな」
そのまま近くにあった自販機に足をむけて、適当にジュースをひとつ買う。
そしてそれをその子に渡した。その意味がよくわかってないのか、きょとんとした顔が俺を見つめ返す。
「それでも飲んで帰れ。危ないから寄り道はすんなよ」
俺が笑って頭をなでてやると、その子はぱぁっと笑顔を見せてもう一度「ありがとう!」といってパタパタと走っていった。
しばらくその姿を見送って、俺は微笑する。
……昔、サッカーボールが取れなくてひとりぼっちになってしまった、その後。
『千尋』
俺が途方に暮れてしゃがみ込み、ついに泣き出してしまったときに名前を呼ばれた。
声の方を見上げると、大好きな父さんがいて。
『心配したんだぞ』
と優しく言いながらサッカーボールを取ってくれた。
そして帰り際に『母さんには内緒だ』といってジュースを買ってくれて。
正直いって内緒にする必要なんてなかったんだろうけど、二人だけの秘密だということに幼い俺はやけに喜んで。
そんな俺を見ながら父さんは笑って、
『公園は楽しく遊ぶところなんだから、笑って帰らないとな』
……優しく頭をなでてくれた。
「……俺、父さんみたくなれたかな」
もうこの世にはいない、優しい父さんみたいに。
*
少しその場に立ち尽くしてから、懐かしい思い出を重ねるように公園の中を歩く。
そうして近くにあったベンチに腰を下ろすと再びズキッと痛みが走って俺は顔をしかめた。
頭の中を埋めていた幸せな思い出が、その痛みと共に急速に冷めていく。父さんの笑顔も、消えていく。
『服を脱げと言ってるんだ、仙崎』
「……っ」
思い出したくもないのに曽我の声が頭の中で響きだした。
誰かの前では、瞬時に表情を繕ってこんな俺を隠すことができる。
甲斐田と飯塚の前でもだ。白石ちゃんの前でも。さっきの子の前でもそうだった。
だけど。
誰にも弱っている自分を見せられないことを、心のどこかで苦しく思っている自分がいる。
胸の奥に何か鉛のようなものが積みあがっていくような、そんな閉塞感さえ感じた。
そんな時、ふと誰かの視線を感じる。
「……? あ……!」
あまりに意外な人物を見て思わず目を見開いた。
……松澤だ。
さっき俺と少年がいたあたりに松澤がいて、こちらを見ていた。
だけど目があったのは一瞬で、そのまま目をそらして歩き出してしまう。
「あ……――」
俺はなんか悲しくなって、見届けることもなくすぐにうつむいた。
せっかく話しかけられるチャンスだったのに。
どうして声をかけられなかったんだろう。
こんなところで会えるなんて、思ってもなかったのにな……。
でも……もし仮に松澤が人と話すのが嫌いだとして。俺が話しかけて嫌な顔をされたとしたら……もっとキツかったかもしれない。
そんなことを色々と考えていたら、松澤がこの町から居なくなることまで思い出されて余計に心の中がモヤモヤした。やっぱりさっき声かけるべきだったろって。
その時。
「……飲めるか」
すぐ近くから声が聞こえた。この声は、まさか。
え? え?
予想もしなかったことに胸が高鳴る。灰色だった心に、色が鮮やかに戻っていく。
そうしてゆっくり見上げると、俺にジュースの缶を差し出している松澤が立っていた。
「……え、っと……?」
……信じられない。
松澤は硬直している俺をじっと静かな瞳で見つめたまま、返答を待っていた。
俺は茫然としてから数秒遅れてさっきの問いを思い出す。
「あ、うん! 飲める飲める!」
すると松澤は俺の手にその缶を渡して、隣にゆっくりと腰掛ける。
俺はその一連の動きから目をそらせなかった。
そして松澤はもう片方の手に持っていたお茶の缶を開けて飲み始める。
「あ、あのさ。これ……」
俺が缶を渡された意味を確認しようと思って口に出すと、松澤は俺を一瞥してから前を向いて口を開いた。
「……さっきの子にジュースあげてたけど、お前の分が無かったから」
さっきの子って、サッカーボールの?
「あー……。……って、え!? 見てたのか!?」
返ってくるのは頷きひとつ。どこからだよ!
「子どもの頭撫でてボールを取ってあげるところから一部始終」
平然とさっきの言葉に付け加えるように答えるその声に、俺は顔を赤くしてうつむく。
なんだよ……、なんなんだよ……。あんなとこ見られるとかすっげーはずかしいじゃん……。しかもよりによって松澤に。
ってか、さっき見たとき公園に俺たち以外は誰も居なかった気がすんだけど。
「え……松澤どこにいたの」
うろたえたような声でそう聞くと、松澤は無言で俺と少年がいたところの傍にある森の方を指差す。
その森は俺たちが座っているベンチの裏やその一帯にかなり長く広がっていた。
それを見てポカンとする俺。
……、は?
いや……ってかこれって森、だよな?
そして思考が追い付かないまま慌てて松澤に向き直る。
「……森!?」
え、こいつ何者!? 森に潜んでたってこと!?
ありえない状況、意味の分からない回答。
頭の中でどんどん暴走していく思考に混乱し、それがいつの間にか思いっきり顔に出ていた俺は「いやいや」と松澤にあっさり否定された。
「いや、この公園の裏にある遊歩道」
それを聞いて「あぁ……」となんだか安心する俺。いや、『あぁ……』じゃねーだろ。なんだこの展開は。
「でも……遊歩道? そんなところあったっけ?」
俺の記憶には全く覚えがなくて首をかしげると、松澤はほんの少し微笑んだようだった。
その表情がめずらしくて、俺は少し胸の奥がざわめく。
「知ってる人はあまり居ないかもしれないな。なんでもずっと昔に使われてたみたいだから」
「へぇ……。松澤って頭良いって思ってたけど、こういうことも知ってるのな」
「……この道を見つけたのは偶然。適当に歩いてたらいつの間にか迷い込んでた」
「ははっ、なんだよそれー」
元々俺の中にあった松澤のイメージにない行動を聞いて、自然と笑顔になった。
いや、でも確かにどこか他のやつとは違ったオーラがあるから、松澤らしいと言えばそうなのかも。
……あれ? ていうか俺……
案外、松澤と喋れてるんじゃね?
そのことに気付いた途端になんだか嬉しさが胸にこみ上げる。
たった今、自然と喋れてたことが心地良かった。
松澤ってこんな感じで普通に喋れたんだ。
こんなところ、学校で見たことない。
ってか、こいつとちゃんと喋れてるのって俺だけなんじゃないの?
……そんな自惚れのような考えさえ浮かんできてしまう。
いや、きっと自惚れに決まってる。
だけど……だけど俺、今めちゃくちゃ嬉しいかも。
そんな思いが隠し切れなくて、笑顔がこぼれてしまう。
すると。
「……とりあえず、飲めば」
横から松澤の声がして、俺は手に握ったままの缶をまだ開けてないことを思い出した。
「……あ、うん。ありがとな、これ」
俺が照れたように笑いながら言うと、松澤がさっきよりも分かりやすい微笑を返してくれる。
「……!」
……不覚にも、キュンとした。目の前の男に。
やっべぇ、やっぱこいつイケメンだ……! テレビに出てるそこらの俳優よりカッケーかも……男の俺でも憧れるって!
ってか今気づいたけど右目の方に泣きボクロある! すげー、うらやましい!
そりゃ女子が惚れるのも当たり前だな。
つーかあいつらよりも先に笑顔見れた俺ってラッキーじゃね? 誰かに恨まれてもおかしくねーわ。
そんなことを納得しながら缶を開けてジュースを口に流し込む。
なんだかいつもよりも美味しく感じるのは俺が単純なせいかな。
「んー、美味い!」
俺がそう叫ぶと、松澤は控えめに「そうか」とだけ返す。
口数は相変わらず少なめなんだよなー。でも、優しい。
俺は笑いながら松澤に、
「松澤ってさ、思ったよっか結構喋れるじゃん! 優しいしなんか面白いし、いつもこんな感じなら学校でもみんなにもっと好かれるのにさー」
……そう言い切ってから、途端に後悔した。
こみ上げるそれは、今まで考えたこともなかった汚い感情。
……他の人に優しくなんてしてほしくない。
他の人間が松澤と楽しく喋っている顔なんて、見たくない。
誰にも知られないところで、俺だけに。
俺だけに、優しくしてくれたら……なんて。
「……、…………」
自分の顔から無意識に笑みが消える。
……なに考えてんだ、俺。最悪だろ。
みんなも松澤と喋りたがってるんだ。なのに自分が上手く話せてるからって、なに変な優越感や独占欲もってんだよ。
そう頭では考えてるのに、心のどこかで。
『……そう接してみるのも良いかもな』と、肯定的なことばを松澤の口から聞くことを怖がっている。
だけど幸いにも、松澤は俺の不安要素とは別の言葉を返した。
……若干別の不安要素を生ませる言葉を。
「……別に、周りに好かれたいとは思わない」
「え?」
「人付き合いってあまり好きじゃないから」
……それって、俺と話すのも苦手ってこと?
でも、それならなんで俺に話しかけてくれたの?
その言葉の意味を探ろうと少しうつむいた松澤の横顔を見つめるも、その無表情な顔からは何も読み取ることはできなかった。感じるのは、微かな灰色。
どことなく胸に生まれる不安。
そしてその言葉に俺がうつむいた時。
「……そんなことよりも」
「?」
顔をあげた松澤は唐突なことを言った。
「……何かつらいことがあるなら、手短に満足できることを探した方がいい」
「は?」
「俺が話しかける前、お前がつらそうな顔をしていたから」
「…………!」
その一言に胸がぎゅっと締めつけられる。
……さっきの顔、見られてたんだ。
だけど俺はそんな動揺を押し込めて、いつものへらへらとした笑顔を作って言った。
「なーに言ってんだよ! そんなわけ……」
『そんなわけない』と言おうとして、言葉を一旦噤む。
いつの間にか俺を見つめていた松澤の静かな目が、俺の心を見透かしているように感じたから。
……正直言って、怖くなった。
どうしてだろう。いつも得意にしてる嘘が壊れるのを感じる。
俺は自分の顔が強張ったことに後から気づいて、松澤から顔を背けた。
「……さっきから少し、気になってた。お前は普段そんな顔をしないから」
「あぁいや……マジで大丈夫……」
目を合わせられないままそう答えると、語尾が微かに震えて泣きそうになっている自分がいる。
嘘がうまくつけなかったことに動揺して、なんだか痛いところまで突かれてしまったみたいだ。
いや……それがつらくて泣きそうになってるんじゃない。それだけじゃ、ない。
……嬉しかったんだ。初めて誰かに気づいてもらえたから。
それに気づいて俺は松澤から顔を背けたまま、ぽつりと言う。
「……あの……やっぱり、そうでもなかった、かも」
一気に脆くなった俺が次の返答を怯えるように待つと、返ってきた言葉は。
「……うん」
――――何もかも受け入れてくれるような、ひどく優しい一言だった。
俺はぐっと涙をこらえて収まるまで待ちながら、頭の中では悔やむ思いが次々と溢れていく。
……なんで、もっと早く話しかけなかったんだろう。
松澤はあと数日でいなくなるのに。
……こんなにこいつと居るのが心地いいなら、傷つく覚悟をしてでも話しかけておくんだった。
俺が臆病だったばっかりに、こうなってしまった。
俺は涙が収まったのを心の中で確認しながら静かに聞いた。
「そういえば……留学の話って、前からあったの?」
「いや、一週間前くらいの話だ」
……そんな最近? 急すぎない?
俺は動揺を隠すようにジュースを飲みながら話を進める。聞きたくない話だった。できることなら目を逸らしていたかった。
「……へ、へぇー。海外に興味あったんだ?」
「別に、海外に出たいとは思ってなかった」
意外な言葉に俺は目を見開く。思わず松澤の顔を見た。
「え……じゃあなんで」
「親に『学校は楽しいか』って聞かれて『そうでもない』って答えたら、話が留学の方に進んでた」
「そんな……」
「たしかに、学校が楽しいとは思わない。でもこの町が嫌いだってわけでもなかった」
「それならなんでそう言わねーんだよ!」
「それは……俺がどこに居ようと大して変わらないと思ったからだ。だから反対する言葉もなかった」
「…………」
うつむく俺の気配を察したのか、松澤は言い聞かせるような口調で言う。
「――――俺は、どこに居ようと生きてる心地がしないんだ」
その眼はどこか宙を見ていて、無表情で。
俺はその言葉と眼を見て本能で感じる。
……これだ。俺と『同じ』ように感じた理由は。
やっぱり、こいつも灰色だったんだ。
『生きてる心地がしない』
俺の胸のわだかまりを表してるその一言が胸にストンと落ちた。
……そうだ。
甲斐田や飯塚たちと笑ってる俺は偽りの顔をした俺。白石ちゃんの前で嘘を突き通す俺。曽我たちに無理やり犯されて泣いて嫌がってる俺。でもその反面本当は無理やり犯されることに悦びさえ覚えてしまった俺。
すべて自分が作り出してしまった『俺』で、本当の自分が自分でもわからなくなってしまった。
……だから本当の俺は生きていない。いくら人の前で笑っていようが、生きてる心地がしないんだ。
今までの自分の生き方を写しこんだような、まるで自分の重大な何かを知ってしまったような衝撃を覚える。
俺は目を見開きながらうつむき、黙り込んでいると松澤は鞄を肩にかけながら言った。
「そろそろ夜が始まる。……帰ろう」
聞きなれない言葉の響きにぼんやりと夢見心地のようになってしまったが、すぐにハッとして頷く。
「そうだな。こんなに暗くなってるなんて気が付かなかった」
辺りを見れば薄暗くなっていて、赤い夕焼けは空の向こうの方に押しやられていた。
松澤が立ち上がるのに合わせて立つと、忘れかけていた下半身の痛みが疼いて少し表情が歪む。
「……ッ」
「……大丈夫か?」
そう心配する声が暖かくて、俺は微笑した。
「ん。平気。一日中走ったりなんだりしてたから疲れてるだけ」
「そうなのか? ……服も、ところどころ汚れてる」
そう言って松澤は俺の学ランについた土埃を軽くはらってくれた。さっき無理やりヤられたときに地面に放り投げられてたからだ。でも制服越しに触れてくれる松澤の手になぜかドキドキした。
なに、これ? なんなんだろう、この感覚。いくらなんでも男にドキドキするとか……。
俺はなぜかこれ以上考えるのはヤバい気がして、自分の気持ちを紛らわすようにして松澤を茶化す。
「……ってかさ、『夜が始まる』ってなに! そんな言い方聞いたことねぇって」
そうからかうと松澤はハッと口元を一度手で押さえて、苦い表情をする。
「……無意識だった」
「ホント、松澤って不思議なやつだなー」
でもさっきの言葉は現代染みていなくて、こういうと変かもしれないけど、どこか別の世界に連れてってくれそうだった。まるで現代から異世界に連れてってくれる物語の中の人物。
「なぁ松澤、途中まで一緒に帰ろ?」
「あぁ」
「家どっち方向?」
すると松澤が指差したのは俺の家とは反対方向で、ちょっと内心落ち込む。
「そっかー……じゃあすぐお別れだなー」
「そんなに残念がることか?」
「残念に決まってんじゃん。松澤と喋れることそうそう無いし」
「……そうか」
少し驚いたような顔を一瞬見せる松澤に俺は微笑んだ。
そういう表情を見せてくれることも、こうやって並んで歩いてることも嬉しい。
俺たちはそのまま公園の出口へとつながる森と森の間をゆっくりと歩いていく。
そうだ、これだけは言っておかないと。
「……松澤」
「ん?」
「ありがとな」
「何が」
「んー……まぁ、色々?」
俺の曖昧な答えに松澤は不思議そうな顔をしたまま返す。
「……どういたしまして」
公園の出口がもう目の前にあって、なんだか現実に引き戻されるような感覚がした。
この暗い道を出れば車どおりが多い明るい道に出てしまう。
こう言うと妙な雰囲気になってしまうけど、二人きりの時間が終わる。
もう少しここに留まって居たかったけど、それはできない。
この時間を終わらせられてしまうよりも、自分から終わらせよう。
公園の出口を自分から抜けて俺はあえて元気そうな口ぶりで言った。
「それじゃ、……学校で話せるかは分かんねーけど、また明日な!」
「……あぁ、また明日」
俺の言葉に静かな微笑を返して、松澤は背を向けて歩き出す。
その余韻はすぅっと微かな風に溶けて、あっという間に過ぎ去った。
あー……やっぱイケメンの笑顔って罪だよなぁ……
そんなことを思いつつ、ちょっとさみしくなる。
もうちょっと話したかったなーとか、どっか遊びにも行きたかったなーとか色々思ったりもして。
だけど……良い思い出ができて、ホントに良かった。
俺は背を向けて、微笑しながら歩き出す。
――――……この思い出は、誰にも話さないでおこう。
あいつがジュースをくれたのも、俺に笑ってくれたことも、心配してくれたことも、全部。
ずっと大切に心の奥にしまっておこう。
そうすればきっと、俺とあいつだけの秘密になるから。
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