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第1章 4-雨に消えて

[視点:仙崎千尋]  ……やっと、松澤と話せた。  公園で別れてからの帰り道、俺は松澤のことで頭がいっぱいだった。  今日見た松澤の表情、言葉、仕草……。そのひとつひとつがすごく貴重で、胸の奥では今にも叫びだしたいほど嬉しい。  そして同時に、胸が苦しくてどうしようもなかった。 『――――俺は、どこに居ようと生きてる心地がしないんだ』  松澤……、  俺も、いつもそう思いながら生きてるよ。  そう素直に言えればよかった。その言葉を聞いたとき、自分の中にあった『灰色』の理由もわかったから。  けれど臆病な俺は本当の自分をすべて松澤に見せることが怖くて、できなかった。  いつかは、できるかな。 「つーか……『いつか』って、いつのことだよ……」  松澤はもうすぐで居なくなるんだって。わかってんだろ、俺……。  その事実を思い出した途端にやるせない気持ちが募って、俺は道端に捨てられた空き缶を蹴りあげた。  *  そんな色んな気持ちが入り混じって気持ちが沈んでいる俺は、ようやく着いた一戸建ての自宅のドアをそっと開ける。  大きな音を立てて入りたくないのには理由があった。  そして玄関先に雑に脱ぎ捨てられたサンダルを見て、体が少し緊張するのを感じる。  テレビの音は、目の前に伸びる廊下の左側にあるリビングから聞こえた。  その廊下へ渡らずにすぐ右に行けば自分の部屋がある二階へ行く階段がある。  本当はこのまますぐにでも部屋に引きこもりたかったが、夕方に曽我と知らない男に犯されたことを思いだしたらすぐにでもシャワーを浴びたかった。  シャワーは目の前の廊下を奥まで突き進んで右にある。当然リビングの前は通らないとならない。  俺は意を決して、足音を忍ばせながら廊下を歩いていく。  テレビは野球の試合を放送しているようで、客席の歓声が廊下まで響いている。  そしてそっとリビングの中を覗きこめば、下着姿のだらしない恰好をした中年の男がテレビの前で横になっていた。  良かった。寝てる……。  俺は安堵の気持ちを抱えて浴室に向かう。  *  シャワーを浴びて体中の嫌なものを洗い流した俺は、浴室にある洗濯機にインナーや下着を放り投げて制服だけ持って廊下を歩き始める。『こういう日』のために脱衣所には常に部屋着を用意しているから裸ではない。  その時。 「……おい」 「……ッ!」  油断していた俺が、迂闊だった。  俺の腕をつかんでいるのはさっきまでリビングで寝ていた男だ。少し伸びた髪はぐしゃぐしゃで、剃っていない髭も不快感を漂わせる。 「帰ってきたならなんで言わない? 俺はお前の親だろう?」  その男からはひどく酒のにおいがした。瞬時にハッとする。ヤバい…! 「やめろ、放せ!」  俺は思いっきり力をこめて俺の腕をつかむ手を引きはがした。そしてそのまま急いで階段を駆け上がる。 「俺は……っ、アンタを親だと思ったことは一度もねぇよ!」  階段を上ってこようとする男にそう吐き捨て、俺はすぐに自室のドアを閉めて何重もの鍵をすぐに見据えた。  一般的についている鍵だけでなく、ドアのあちこちに自分で後からとり付けたいくつもの鍵を次々に閉め、ドアから数歩下がって体を強張らせる。  するとドンッと床を震わせる勢いでドアを叩かれ、ビクリと体が跳ね上がった。  ドアの外から声が聞こえる。 「おい、俺が親だと思えねぇなら何だと思ってる? 愛人か? あぁ?」  やめろ、聞きたくない。 「随分やらしい息子だなぁ、母さんに内緒で俺とセックスしまくってよぉ。今もシたいんだろ? ん?」  違うだろ、お前がいつも無理やりしてくるんだ。  やめろ、やめろ、やめろ……!  俺は嫌な言葉から逃れるように部屋の奥のベッドに飛び込み、布団の中でうずくまった。  しばらくして「この野郎!」という怒号と一発ドンッと再びドアを殴られて、階段を下りていく音がしてからようやく息を深く吐く。 「はぁ……」  あの男は、母さんが後から連れてきた男だ。つまり義理の父親ってこと。  でも俺はあいつを親だと思ったことは一度もない。 「父さん……」  俺の父さんは、小さい頃よく俺に優しくしてくれたあの人だけだよ……。  父さんが死んでも、母さんが連れてきたのがあいつじゃない別の男であれば良かったのに。  そうでなければ、曽我も変わりはしなかった。  ***  高校二年になって初めての家庭訪問のときのことだ。  その日、運が悪く俺の担任はインフルエンザにかかり、代わりに家に来たのが副担任の曽我だった。  そしてその時にはすでに俺の母さんは家にいなかった。これはいつか話すと思う。  つまり家庭訪問に立ち会うのはあいつしかいなかったわけだ。  俺は部屋に居たかったところだけど、この男が何をしでかすか分からなかったから、見張りの意味も込めて同じリビングにいた。  最初の方は滞りなく進んでいたが、事が起こったのは最後のあたり。  この男はしどろもどろに話す曽我に何かを見出したようで、突然。 「おい、お前」  着かず離れずのところに座っていた俺を無理やり引き寄せて、曽我の目の前で俺を押し倒した。 「ちょっ……、はぁ!? やめろよ、何してんだよ!」  俺はパニックになって両手を振り回すが、簡単に頭上にひとまとめにされてしまう。  曽我も動揺したように俺の上にかぶさる男を見た。  そしてその視線を向ける男に挑発的な笑みを返して、悪魔のような囁きをする。 「先生、あんたも楽しいことしてみないかい」  そう言って俺のTシャツを思いっきりまくり上げ、乳首に吸い付いた。そして荒々しく何度もなめ上げる。 「あぁッ……んぅ……!」  自分の気持ちを無視して体が無意識に嫌な声をあげる。  嘘だろ、こんなのありえない。なんで、他人の目の前で。しかも学校の。なんで、なんで……!?  そして男は俺のズボンのベルトを外そうとしたとき、茫然とその行為を見ている曽我を苛立たしげに見て、 「ほら、あんたも」  無理やり曽我の手を掴んで俺の胸にこすり付けるように乱暴に動かした。  乳首が乱暴にこねくり回される。 「あっ、あっ、あぁぁぁ……!」  強引に引き出される快感に抗おうと曽我の目を見つめた瞬間。  いつも虚ろなその目に血がみなぎるのを見た。  ***  あの日、初めて俺は曽我に犯された。  それからは曽我があいつに毎月いくらかの金を払い、俺を好き勝手にしている。この父親を名乗る男は見事に曽我から生活費等の金を得ることに成功し、曽我は自らの欲望を俺を捌け口にして満たすことに成功した。  あの男さえいなければよかったんだ。  常識もない、醜態も晒す。最低だ。  そして。  そういったレイプのようなことをされて、嫌悪の裏で自分が快感を求めているのも、最低だ。  嫌な気持ちを払拭したくて、俺はベッドのわきにある机の上のパソコンを開いた。  見るのは男向けのレイプ動画。ゲイってわけでもない女がヤられてるだけの動画だ。  なんだかんだで今のご時世、未成年でも見ようものなら見れる。  ……いつからだろう。  元からレイプものは好きだった。見るたびに背や自分のモノがゾクゾクするほどの快感をそこに感じて。  普段の俺には似合わず性に関してはかなり鬼畜なのか、無理やり犯されて涙を流しては許しを求めて懇願するその姿に欲情していた。淫乱になって欲に浸かりきってひたすらセックスに没頭するのも、軽いSMも好みなようで、どうやらアブノーマルなのが好きだったみたいだ。  でもいつからかそれは女を犯す視点ではなく、犯されている女の視点でものを見ているようになっていた。  たしかに胸も無いしついてる物も違う。だけど犯されていて抵抗できないという屈辱的なシチュエーションを自分に置き換えてマスタベーションすることが多くなっていた。  そしてそれで、尋常じゃない快楽を得られている。 『あっ……あんッ……いや、やめて……!』  ヘッドホンから聞こえる女の喘ぎや叫び。  画面の向こうで彼女は仕事の帰り道に路地に連れ去られ、服を脱がされている。  一瞬、今日の曽我を思い出してゾッとするのと下半身が熱くなるのは同時だった。  あぁ、乳首吸われてる……。  自分の乳首も服の上から軽く引っ張った。女が犯されてるのを女視点で見るからか、どうしても性器より胸ばかり弄ってしまう。  そして画面の向こうで満足気に息を吐くこの男に犯されているのかと思い込む。  それが少し嫌ではないものの腑に落ちなかった。  俺はマスタベーションを終える前にノートパソコンを閉じて、ベッドに横になる。  外はとっくに暗くなり、数秒見つめてからカーテンを閉めた。 『夜が始まる』  ふと、松澤の言葉を思い出す。  松澤……夜が始まってもうどれくらい経っただろうな。  そんなことを思ったときに突発的に予想もしなかった発想が生まれた。  ……松澤にレイプされたらどうなんだろう。  背徳的な考えに背筋はゾクゾクと震え、心臓はバクバクとせわしなく動き出した。 「こんなのはダメだ」と思いながらも、横たわったまま寝間着のTシャツをまくり上げていく。  それだけで自分のモノからだらだらと汁がこぼれるのを感じる。  めくれたTシャツから勃起した乳首がのぞいた。  俺の乳首は性感帯へと開発され、色んな奴に吸われまくって他の男よりも幾分女のもののように勃った。というか、開発されすぎた。もうすでにここだけで、ドライでイくこともできる。  それを恥ずかしいと思ってはいるものの、感じられる快感からは目をそらせない。  松澤、松澤……!  松澤に脱がされていると想像しながら下着を足からすべて引き抜く。胸全体に手をまさぐらせて、乳首を先ほどの比じゃないほどに引っ張る。  だらだらと蜜をこぼし続ける自分のモノを力強くしごき上げる。息が乱れ、次第に喘ぎに変わっていく。  でもそこまでしてハッとした。  ――――松澤がこんなことするか?  まるで夢がはじけたかのようにすべてが止まった。  そうだ、あんな優しい一面がある松澤がこんなことするはずない。  それも男相手なんかに、するはずがない。  そもそも、『性』というものに一番かけ離れているように感じた。  そこまで考えて、自分の浅ましさに嫌気がさして。  たった一筋、涙が目じりを伝ってこぼれて行った。  *  そうして体力の消耗に意識が落ちたその後。 「やっ……やだって言ってんだろ!? こんなとこで……もうやめろよ!」  夕暮れ時の誰もいない自分のクラスの教卓の上で千尋は曽我に犯されていた。  下半身の服は脱がされ、勃った自分のモノがだらだらと蜜をこぼして夕陽にてらてらと照らされている。  上半身の服は前が開かれて自分の胸元が露わになっていた。  曽我の手がその服の中に滑り込まれて胸を撫でる。 「たまにはいいだろう……今回は見物人もいるんだから」  え?  その視線の先を追うと、誰も居なかったはずの教室に松澤が自分の席に座って本を片手にこちらをじっと見つめていた。 「松澤……!?」  目の前が真っ暗になりそうになる。  松澤は何も言わずにこちらをみている。 「松澤……やだ、やめろよ……こんなところ見ないで……」  何も答えてくれない。ただじっとこちらを見ているだけだ。  嫌だと思っている。確かにそう思っているのに、身体はひどく悦んで後腔がヒクヒクと激しく収縮し始める。  耳元で曽我の声が聞こえた。 「ほら、もっと見せてやろう」 「ッ!?」  突如、両脚を思いっきり左右に割開かれ、自分のモノが松澤に見せびらかすようにされた。  俺は羞恥のあまりに「いやだあああああ!」と叫ぶ。  でもやはり松澤は目をそらさない。  俺の醜態を、いつもクラスで見せる突き放したような冷たい目でじっと見つめてる。  でも、ただそれだけでも。 「松澤、まつざわっ……」  いま俺は松澤に視姦されてるのだという事実に、 「……ッああああああ!」  ――達してしまった。 「あ……あぁ……」  目の前が真っ白になる。自分のモノからドクドクと脈打つようにして出る白濁の液は止まってくれない。  松澤に、嫌われただろうか。軽蔑されただろうか。  もう俺と、逢ってはくれないだろうか。  射精が落ち着いてから、そんな恐怖にも似た心配が浮かんだ。  そして恐る恐る松澤を見れば。  気のせいだろうか、俺ではなく俺を抱えて笑う曽我に、見たことも無いような怒りの表情を見せていた。  * 「…………ッは……」  鳥の囀りで目が覚める。  あれは、夢……?  そしてぼうっとした頭で体を起こして数秒。 「わあああっ!」  下着を外したままで寝たのが幸いでそこは自分の白濁の液でいっぱいに汚されていた。  その量のあまりの多さに言葉が出てこない。  あの夢の中で、松澤は俺に触れてはくれなかった。  ただ見られていた、それだけなのに……。  こんなに快感を感じたのは初めてかもしれない。  あの冷ややかな視線を思い出すだけで腰がまたうずいた。 「やべ、また勃ちそう……」  いや、これは朝勃ちだ、きっとそうだ。  そう無理やりにでも思わないと、気持ちを抑えられなかった。  *** 「あーあ、雨降ってきたー。最悪―」 「遊びに行くの今度にしよっか?」  女子たちのそんな声が聞こえて窓の向こうを見やれば、重たい灰色の雲からぽたぽたと雨が降り始めていた。  これは授業がすべて終わった後の、午後のこと。  ……結局松澤とは何も話せなかった。  すれ違うことは数回あったが、お互い昨日のことを周囲に知られないようにと無意識に壁を作っていたのか、話しかけることができなかった。  いや、もし自分の中の腹黒い意識が働いていたとするなら、俺が松澤と話した途端に俺の周囲にいるやつまで話しかけようとすると本能的に察したからかもしれない。 『ヒロが話せるなら、私も、俺も』そう考えてみんな話しかけるかもしれないと思ったのだ。それは嫌だった。拭いきれない幼稚な独り占めだった。 「あ゛ー、雨だとなーんもやる気おきねぇわー。ヒロ、飯塚、これから何するー?」  俺のそんな考えを遮るように、俺の机に上半身を寝転がせてきた甲斐田が俺と飯塚を交互に見た。 「今お前『なんもやる気おきねぇ』って言ったクセに……」  そう俺はぼやきながら飯塚に同意を求め、飯塚はうんうんと頷いた。  そんな俺たちの様子に甲斐田は気づかぬようで、「お!」と嬉しそうに声をあげた。 「そういやゲーセンで新しいアーケード出るの今日だったよな! 行かね?」 「あー『ストファー』の新作? 別にいーけど」 「え、俺あのゲーム難しくてできねぇ」 「飯塚はどっちかっつったらレーシングだもんなー」 『別にいーけど』と答えたあとの俺になんかひっかかる違和感。 「あ゛ー! 俺今日補習あるの忘れてた!」 「この前の英語? あれ簡単だったじゃん」 「飯塚、テメェ……案外頭良いからお前は免れたんだろ……」 「でも俺も合格だったぜー?」 「うっ……」  英語苦手なんだよなー……忘れてた。  確か補習受けるのって学年でも二人か三人だったような……。ヘコむ……。 「ま、担当が曽我じゃねーだけいいじゃん?」 「そうそう、あいつなーんか気に食わねぇし」 「まぁなー……。はぁ、いいよ、お前らだけゲーセン行ってこいって」 「よっしゃ、じゃあ行くか、飯塚! ヒロも頑張れな」 「おう」 「分からなかったらメールでもLINEでも電話でもかけてこいよ」 「飯塚はバカにしてんじゃねぇ!」  そうして俺は楽しそうに出て行く二人を眺め、補習の教室へと向かった。  そのときちらっと松澤の席を見る。  あいつはいつもと変わらず、本を読んでいた。  *  思いのほか、補習は一時間もしないうちに終わった。  先生の「もうお前らには手の施しようがない……」と落胆した様子を見せた表情があまりに悲しくて、逆に笑ってしまう。  そして今日は他のクラスの同じ補習に出た奴らとも仲良くなったし、まぁいいかと思ったそんなときに。 「……この大雨かよ」  外は土砂降りで容赦ない雨粒が地面を跳ねさせていた。しかもこんな時に限って学校に置きっぱなしにしてる傘もない。 「くっそ、このまま帰るか」  唯一の救いは、曽我が教員の会議でいないことだった。  俺は駆け足で逃げるように校庭を出る。  ばしゃばしゃとぬかるんだ地面を踏み込むたびに泥が跳ねていく。  だが、次第に足はおとなしく歩み出した。  松澤がこの学校にいるまであと数日。  今日は何も話せなかった。  うつむく俺に容赦なく雨は降りかかり、頬をとめどなく雨粒が流れていく。  もう一度、話したい。  思い出を少しでも作ってから、さよならしたい。  そんなことをぐるぐると考えながら、足は自然と昨日松澤と会えた公園に向かっていた。  たぶん、このまま松澤と話せないままあいつが留学になったら、思い出はここにしか残らないんだろう。  ……それだけでもいい方かな。  でも。 「……っう…………」  松澤がいなくなったら、本当に俺は一人になるんだと思った。  皆の前では平気な顔して笑って、裏では曽我にも父親を名乗るあの男にも犯されて。  きっとずっと、死にたいままだ。  そんな日々が、続くんだ。  いやだ、離れたくない……。  まるでそれは、初恋のようだった。  *  公園に着くころには泣き疲れていて、さっきまではあんなにも鬱陶しかったこの雨が涙を流してくれて良かったと思った。  この頃には、こんな雨の中で松澤がいるわけないだろうという気持ちのほうが強く、諦めていた。そして公園の前を通り過ぎようとした、そのとき。 「……っ!」  木々の合間から、この前一緒に座ったベンチに一人座って雨に打たれる松澤の姿があった。 「松澤っ!」  俺は目の前の木々や雑草を踏み分けて松澤の元へと走り、片脚をベンチの上に乗っけて自分のカバンを松澤の頭上に掲げ、雨に少しでも濡れないようにと自ら覆いかぶさった。  すると目をつぶっていた本人はゆっくりと目を開け、ぼうっとしたような目つきで静かに俺を見つめ返した。 「なにやってんだよバカ! 傘もささないでこんなとこで雨に打たれて……風邪ひいたらどうすんだよ!」  言ったと同時に、俺の髪から滴った雫がポタッ…と同じく濡れた松澤の頬に落ちて溶けいるように流れていく。  怒ったように問いただす俺に松澤は茫然と、「このままでいいやって思ったから」と一言答えた。 「……? よくわかんねぇけど、風邪ひく。どっか雨宿りになる場所行こ?」  そう言った俺の顔をじっと見ていた松澤がそっと俺の目尻に親指をあててきて、予想もしないその感触にビクッと身体が跳ねた。  やべぇ、今朝の夢のせいもあって身体が反応しちまう……!  そんな心配をよそに松澤は少し眉根を寄せて静かに言った。 「……さっき、泣いてた?」 「えっ……」 「…………」  雨にかき消されるように落ちる沈黙。 『お前のせいだよ』なんて、言えなかった。 「……っ知らねぇ。ほら、どっか行くぞ!」  俺は松澤の手を引いて走り出す。  どっか、どっかないか!?  いや、雨宿りになる場所なんてどこでもある。  でも……誰にも見つからない場所が良かった。  だけど俺の頭にはそんな場所浮かびもしない。  ひたすら無我夢中で公園を出る道に突っ走っていると。 「……こっち」  凄い音で鳴る雨音の中で静かに通る声がしたと同時に、俺はぎゅっと手をにぎられ自分が行こうとしていた方とは反対方向へと松澤が走り出した。 「えぇぇっ!?」  松澤が俺をどんどん知らない道へと引き込んでいく。  握ってくれる手が熱かった。いや、正確には松澤の手じゃなく俺の手が。  あんなにお互い雨に濡れて体が冷え切っていたのに俺の手はどんどん熱くなっていて、それが松澤の手も熱くさせはじめていた。  ドキドキした。嬉しかった。……泣けてきそうだった。  このまま二人でどこか行ってしまいたいと、思ってしまった。  松澤は、「……次を右に」と言って俺を狭い路地に連れ込んでいくと、少し屋根のある古書店があった。……ってか、ここって街のどこら辺なんだろ……。  俺と松澤はその屋根の中に入って呼吸を整える。  そして数秒してから俺に、「……長く走って大丈夫だったか」と聞いた。 「あ、うん、なんとか……。ここってどこだか知らないけど松澤の行きつけ?」  そう聞くと松澤は柔らかく笑って頷いた。 「店主が良い人なんだ」 「へぇ……そっか」  その微笑にこっちまで笑顔になる。そうだ、この顔を俺は見たかった。 「あ」  急に松澤が声をあげ、どうしたのかと思えば。 「……すまない。ずっと手握ってた」  顔が少し赤くなっているのを隠そうと、空いてる方の手で口元を隠すようにして、そっと俺の手を握ってた手を離した。 「あ、あぁ……別にいいって。俺楽しかったし」  本当は、ずっと手を握ってることには気づいていた。  だけど気づいてほしくないと思って自分からは言わないでおいたことだ。  握られていた冷めていく左手に心がすこしキュッと締め付けられるように痛んだ。  そしてそのまま二人並んで、雨が降る様子を見ていた。  松澤は何も言わない。  俺もしばらくは何も言わなかった。  だけど無意識に、口は動いていた。 「――――このまま、雨に溶けて消えられればいいのにな」  その言葉に松澤が俺の顔をのぞき見る。  俺は言ってしまってからハッとして、繕った笑みを見せようとするが瞬時にそれは壊れ、儚げな笑みになってしまった。  そして言ってしまったことに少しじわじわと後悔と恥じらいを感じ始めてうつむいてしまった頃。 「……そうだな」  静かに肯定する声が聞こえて俺はゆっくりと顔を上げる。 「このまま雨に打たれて消えられればいい。……二人なら、それもいいだろ」  松澤は俺と似て儚げな笑みを見せて俺を見つめていた。  そのまなざしがあまりに優しくて。 「……っ」  松澤の顔を見たまま、涙をこぼしてしまった。  俺はそれをごまかすように視線を外へずらし、震えた声でも気丈な様に言った。 「……っそうだよ、二人だったら怖くもねぇ!」  そしてそのまま涙がはやく流れるようにと屋根から飛び出す。そして松澤を見てから空を仰ぎ見た。それから目を閉じて頬を打つ雨を感じる。 「このまんま雨に打たれてさ、ゆっくり自分が溶けてくんだ。そして何も身体がなくなってさ、きっと流れていくんだよ。そしたらどこに行けるかな……いつかは海にも行けんのかな」 「そうだな」 「でもあれだな、二人で溶けたらひとつになれるのかな。そのまんま消えれるなら、俺、ホントに怖くねぇかも……」  悲し気にそっと笑ってから数秒して、ハッとした。 「あっいや……ごめん! いま俺めっちゃはずかしいこと言った! ごめん!」  すると微笑んだ松澤が俺の手を引いて屋根の中へ引き入れ、俺はその意外な力強さによろけて胸にぶつかるように飛び込んでしまった。 「……っ!」 「……謝らなくていい。俺も同じこと、思ってたから」  その言葉を松澤の腕の中で聞いて、心臓が信じられないくらい早鐘を打つ。  それって……、それってさ……。 「っ……お前が言うと、冗談にならねぇよ……」 「冗談じゃない」 「いや、それはわかんだけどそうじゃなくて……」  ヤバい。  端的に言おう。  松澤のこと、『似たような存在』とかそれ以上に、……惚れそう。 「……正直、俺と同じ考えを持つ人なんていないと思ってたから驚いた。だから嬉しかった。俺も、消えたいよ」 「……っ」  ……そんな悲しくなるような笑顔で言うな。 『俺も消えたいよ』 『俺は、どこに居ようと生きてる心地がしないんだ』  頭の中で繰り返される松澤の言葉が雨のように心に降る。 「なぁ、松澤。……お前はどうして消えたいの?」  そう聞くと、松澤は遠い目で外の景色を仰いだ。 「それは、また今度」 「……っ今度なんて、無いかもしれねぇじゃんか!」  思わず、怒鳴ってしまった。  だけど本当のことだ、引かずにじっと松澤を見る。  すると松澤は。 「今ここですべて話すことはできる。でも、それを話しきってしまえば、『また今度』がなくなる」 「え……?」  松澤は切なげに笑った。  もし、もし俺の予想が間違ってないとするなら。  松澤は、また俺と話す機会を作ろうとしてくれている……? 「それよりさ」  話題を変えるように松澤は俺の足元の鞄を見た。 「中の物、大丈夫?」 「……、……っあ゛ー!」  急いで広げてみると中の物がびしょ濡れになっていた。教科書もノートもだ。最悪……。  ヘッドホン今日持ってこなくてホント良かった……。 「……見たとおり最悪。松澤のは?」 「俺は大丈夫」  ちらっと松澤のカバンを見れば、革でできているようで、防水性はバッチリのように見えた。さすが金持ち。 「……こんなに濡れたのは俺にも少し責任あるし、教科書くらいなら交換しようか?」 「えっ……いや、いいよ!」  勉強できない俺からしたら教科書なんて大して重要でもないし!  と付け加えようとしたが。 「あっ、でも……」  ふと、頭に閃いたせめてもの願い。諦めに似た執着のようなもの。 「ひとつだけ……交換してもらってもいい……?」  ひとつでも、松澤の物がほしかった。 「? 別にいいよ、どれでも好きなもの」 「教科書なんていらないほどに得意な教科は?」 「ん…数学とか?」 「あ、じゃあそれ! それください!」  そうして貰ったその一冊は新品じゃないかと言うほどに書きこみが一切されてなかった。唯一、教科書裏に「松澤 零二」と本人の字で書かれている。その文字が、切ないほど愛しかった。 「え、あの……お前さ、授業中勉強してるよな……?」 「してるつもりだけど、書きこむほどでもないなって」  ……、その頭の良さが羨ましい……!  一方、松澤はずぶぬれになった俺の教科書を破れないようにと丁寧に開く。 「……ちゃんと書きこみしてる」  その表情は微笑ましいという表現が何より似合っていた。悔しいくらいカッコイイ。  けど! 「だーーっ! 勉強できるやつに見せたくねぇって! これは破棄だ!」  するとその端正な顔は少し不満げな顔をした。 「だめ。『交換』って約束だ。これは貰います」 「えぇぇぇ……。 だってさ、それ鞄に入れたら他の教科書だって濡れちゃうかもしれないし……」  最後の一言はもはや言い訳だ。  でもそれに納得したらしい松澤は古書店の奥へと入って行った。  俺も遅れて中に入る。  そこは落ち着いた優しい雰囲気で、所せましと古い本が並んでいた。古い本の独特な匂いがする。心は自然と穏やかな気持ちになった。  松澤はそこの店主であろうおじいさんとなにやら話している。  俺はあたりをきょろきょろと見回して、一つの本に目が留まった。 「『銀河鉄道の夜』……」  そしてその隣の方には『銀河鉄道999』という漫画があった。その著者の名前を見て茫然としてると。 「似てるだろ」  突然横から松澤の声がした。 「……っえ?」 「その本の作者の名前。ちょっと俺のと似てるだろ」 「あぁ……『松本零士』と『松澤零二』な。ちょっとそれは思ってたけど……」 「父親が好きだったんだよ、この作品。それで俺に似せた名前をつけた」 「ははは! なんだ、そんな単純な付け方だったのかよ!」 「割と根に持ってるんだぞ……」 「そっかー。まぁでも付け方はどうであれ俺は好きだよ、『零二』って名前」 「…………」  俺の言葉に松澤が目を丸くする。と、同時に。 「あ、いや、変な意味じゃないぞ!?」  と、すぐさま弁解した。 「あー俺、どうして自分が『千尋』ってつけられたのかもう聞けないからさ」 「もう、聞けない?」  松澤が怪訝な顔をする。そう、俺の名前は父さんが決めたから。  でも。 「この話は、また今度な」  俺はニッと笑って松澤に返す。 『俺も、お前にまた会って話したいんだよ』という意味を少しでも届けるように。 「ところで、その手に持ってる袋なに?」  松澤の手にはビニール製の袋が二枚握られていた。この古書店のものだ。 「あぁいや、お互いの教科書が濡れないようにと思って」 「さすが! よかったー、お前から貰った教科書までまた濡れたら嫌だと思ってたからさー」  そう言うと松澤は嬉しそうに笑った。 「……よし、それじゃあ雨も弱まってきたし、帰ろう」 「あー……ホントだ」 「……残念か?」 「……っ、うん……まあな」 「それじゃあ帰りは家の近くまで送ってくよ」 「え!? ……っと……いや、確かにここら辺の道はわからねぇけど、公園までで充分だよ」 「俺と帰るのは嫌か?」 「そんなわけねーだろ!」 「じゃあ、誰かに見られるのが嫌?」 「それは……うん。いや、そのっ……俺と仲良くしてるって思われたら明日お前に人が殺到しそうだし……、お前人付き合いだめだって言ってたし、それに…………男同士でデキてるとか思われたらお前に迷惑かかるし……」 「……俺は別に気にしないよ」 「え?」 「確かに人に寄ってこられるのは多少困るけど。でも……同じ感性を持ってるやつに会えて嬉しいから。もっとお前と話したい」 「松澤……!」  心臓がドクンとなった。もう俺は気づいている。この感情の名前に。 「お前ってほんっと……罪なやつ……」  赤くなった顔を背けるように一足先に出て歩き出す。  すると後ろから、「そっちじゃない。反対の道」と聞こえてきて。 「先に言えよ! バーカ!」  この気持ちに気付かれないようにと悪態をついてみた。  *  途中まで松澤とどうでもいい話をして別れて、家に帰ってきた。  幸運なことにあいつの姿は無く、シャワーを先に済ませてあいつが帰ってくる前に部屋に戻った。  俺の手には、濡れないようにと袋に入れていた松澤の教科書がある。 「……っ!」  嬉しくて、傍から見ればバカだと思われるだろうが、ぎゅっと抱きしめて布団にダイブする。  ほんの少し、松澤のにおいがした。 「あー……マジでどうしよう、俺……」  松澤が、好きかもしれない。  いや、好きだ。  男同士だとか、これじゃあゲイじゃんとか、そんなこと考えてる余裕もなかった。  好き。それしか浮かばない。  なのに。こんなにも好きになってしまったのに。  松澤が学校にいるのは、あと三日。

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