10 / 43

電車の中で、ふたり。 -A

[視点:仙崎千尋]  ……夜の空は空の奥の方へと追いやられていた。  眩しい太陽が俺の背を焼く。  電車のガタゴトとした響きが体に優しく伝わっていた。  そして隣の存在はまるで昨日なんて何もなかったかのように本を読んでいる。  もうこの頃になってからは疎ましい感情が胸を埋め尽くすようになっていた。  今頃、学校ではどうなってるんだろう。  曽我の死体はとっくに発見されたんだろうな。  じゃあ、報道は。  よく事件が起こったらニュース番組のリポーターが事件現場に来る。きっと学校前の様子をリポートしてるはずだ。  犯人は俺って、気づかれたのかな。  現場の状況が知りたくて、怖いながらに俺はあの学校へ引き返したくなった。  よく、「犯人は現場に立ち返ることが多い」とか言うけど、その気持ちが分かったと同時に。  ――そうか。俺ももう普通の人間じゃなくて殺人者なんだという事実に押しつぶされそうになった。  頭の中は支離滅裂に色んなことを考える。  あんな電話をかけて飯塚は動揺してるだろうか。……いや、してるだろ。冗談だと思ってるかもしれない。  甲斐田はまだ寝てるんだろうな。  白石ちゃん、ショック受けるかな。……ごめん。  もしかして犯人の断定はとっくに終えて俺を追跡してるんじゃないか?  次の駅に先回りして、電車に乗っている俺を一斉に取り囲んで、逮捕するんじゃ?  ……怖くなった。  俺は自分の体を強張らせてそのまま抱きしめるようにして前へ屈む。  色んな事が怖くなった。  逮捕されることの恐怖。  警察から追われることの恐怖。  世間の目。  友達だったやつらからの目。  ……そして。  いつかは零二も、そんな俺を見捨ててしまうんじゃないかとまで、思ってしまった。  どうしたら、零二に捨てられないで済む?  どうやったら、俺の手を離さないでいてくれる?  そんな卑しいことばかり考える自分がみっともなくて、醜くて、嫌になる。  あぁ、どうか。  このままどこの駅にも着かないで。  *  けれどやっぱり電車は次の駅へとついてしまった。乗客が二人、そのうち一人は別の車両に乗り、もう一人は俺たちの車両に乗ってきた。  俺は全身が汗ばむ。  そして。 「……探しましたよ」  そうかけられた声に、脳の芯が冷たく凍った。  …………俺を?  でもその声に顔をあげたのは零二だった。 「――――東條さん……! どうして……」  え、知り合い?  その人はピシッとした高そうなスーツを着て、不似合いなスーツケースのようなものをシルバーとオレンジのふたつも持っていた。……なんで二個も? 「……零二様……、よかった、ご無事で。私の予想は当たりましたね」  少し息が切れている。走ったようだった。ってか、『零二様』って……。  零二は眉をひそめる。 「まさか……父が、なにか?」 「松澤様からは何も仰せつかっておりません。今日私が動いたのは独断です。お許しください」 「そうですか……」 「しかし……、留学を拒否されたこと、そしてしばらく犯罪を犯した少年を連れて逃げるということは、お聞きしました」 「……」  零二の沈黙に、俺は拳をグッと握りしめた。改めて、とんでもないことに零二を巻き込んでしまったという事の重大さに心がひどく押しつぶされそうになる。  この場に居たくないと思った。このままこの話を聞いていたら心臓が潰されそうで。  でも……零二が連れてかれたらどうしよう。  俺は相変わらず自分のことしか考えられない酷い人間だった。ここでこの人に零二を託すべきなのが零二にとって良いはずなのはわかっていても、そこから目を逸らしている。  でも、その『東條さん』という人の次の一言には黙っていられなかった。 「そして……、邪魔だと思われるなら家族の縁を切っても構わない、と……仰られたそうですね」 「そんな……!」  その言葉に部外者の俺が立ち上がる。いや、正確には部外者ではない。すべての原因を作り出した張本人だ。  でもそんな俺を見る東條さんの顔は穏やかだった。 「大丈夫です、仙崎千尋くん。お座りなさい。君の情報を勝手にこちらで調べ上げてしまったのはすみませんでした」 「い、いえ……」  俺の名前、もう知ってる……。 「話を戻します。……零二様、松澤様は縁を切るなどといったことは考えておられません。むしろ」 「……むしろ?」 「あまりこちらが手を焼くのを嫌がるだろうから、最低限の限りであなたを助けるように、と呟かれていました」 「……!」 「零二様、私も松澤様もたちの悪い話かもしれませんが、今回の件、喜んでいる節がございます」  その言葉の意味が分からず横の零二を盗み見るも、意識してなのか表情の変化がほとんどなかった。むしろ俺を守ろうとしてくれてるのか、断固として表情や声音を変えず、こんなに穏やかで物腰柔らかな東條さんに対しても心をまだ許していないように思える。……目も口も、全然笑ってない。 「……言っている意味が、わかりませんが」 「……零二様は昔から松澤様の言うことを聞かないことはありませんでした。『その息子が、初めて自分の意志を見せてくれた』と松澤様は仰っていましたよ。――――だから、君」  東條さんの目は次に俺を捉える。俺は身の引き締まる思いで背筋を伸ばした。 「――――ありがとう。君はおそらく……人を殺してしまったんだね。でも、悪意を持った犯行ではなかったんだろう。現場からも衝動的な犯行であると断定されている。たしかに世間的に逃げるのはおかしい。君も自首しようとしたと思う。でも……零二様の意志に従ってくれて良かったって私たちは密かに思ってるんだ」 「……!」  これが、この判断が、良かった? どうして? 俺は非難されるべきはずなのに。 「世の中、私や君が嫌った人間の様に汚い人間はたくさんいるが、その中には君を助けたいと思っている人間もいると言うことを覚えていてほしい」 「でも、零二はっ……零二さんは、犯罪の片棒を担ごうとしてるんですよ!? 俺だって捕まるのは怖い。さっきだって、どうすれば零二に手を離さないでもらえるかとか、零二のことよりも自分のことばっかりずっと考えてた……! それでも東條さんは……これでいいと言えるんですか?」 「この決断をされたのは零二様です。私が文句を言う必要はございません。ご自身の人生です。むしろその人生に巻き込まれたのはあなたです。これから先、苦しいこともあると思います。それでも大丈夫ですか?」  途中から感情的になってしまった俺の言葉に冷静に返されて息を飲む。それに、巻き込まれたのは俺の方? その言葉に納得はできなかった。……理解が追い付かないって言った方がいいのかも。  そしてこれから先、苦しいことに耐えられるのか。正直、自信はなかった。でも、零二が一緒なら……。 「……零二さんが一緒なら、大丈夫だと思います」  声は震えていた。でも、俺の精一杯の言葉だった。  すると東條さんは柔らかく笑ってうなずいた。 「よし。――では、現在私が知っている情報をお教えします。次の駅で私は降りますので簡潔に述べますね。まず、今現在犯人があなただとは断定できていません。しかし、被害者の体から別の人間の体液が確認されたので断定されるのは時間の問題でしょう。しかし、いずれにせよ仙崎君が失踪している現在、彼は人を殺したのか。もしくは拉致されたのか、という点になると思います。これに関しては殺人の線が濃いと考えられるでしょう」 「……東條さん、それだけじゃ、ないですよね?」  零二の言った意味がわからなかった。 「えぇ。松澤グループがこの事件について内密に情報規制をかけます。そしてそれが起こることによって警察が大々的にあなたたちを追うことはなくなるでしょうが……零二様、あなたが事件に関与していることがわかるでしょう」 「そんな……!」 「大丈夫だ、千尋。予想はついてたから」  動揺する俺に零二が制するように片手を俺の前に差し出す。  なにが……、何が大丈夫なんだよ!? 「あと心配するべきは、それでもあなたたちを追おうとする一部の警察、あとインターネットによるあなたの顔写真などの情報流出でしょうか。敵は警察のみに限った話ではありません」 「…………」  敵は、警察だけじゃない。俺が恐れていることを直球で言葉にされたようだった。 「ですが、朗報もあります。ちょうど今日からあなたたちの学校は夏休みです。警察も情報がつかみづらくなっています。家族が旅行へ行ってしまって聞きだせない……といったことです。ですから正直なところ、仙崎くんが失踪していること自体、それほど今は目立っていません。それは喜んでいいことでしょう。それと」  東條さんはさっきから俺の目についていた二つのスーツケースのシルバーの方を零二に、オレンジの方を俺に渡した。 「え?」  なんで?  そんな疑問が顔に出ていたのか、東條さんは俺たちに向かってさっきとはまた違った晴れ晴れとした笑みを見せた。 「旅行なら、スーツケースは必需品でしょう! どうぞ、少しでも楽しい旅をなさってください」  その言葉に俺は口をポカンと開けながら、数秒遅れて涙がにじんでくる。 『少しでも、楽しい旅を』  この言葉がどれほど俺の心を救ってくれたかはわからない。  東條さんは涙がにじみ出る俺の前にかがんで目線を合わせ、優しく肩を叩いてくれた。 「……君はきっと、今までたくさん辛い思いをしてきたんだね。私たちには計り知れないほど」 「……っ」  言葉の優しさについに涙がこぼれて、何か言いたいものの涙をこらえようとするがあまりに言葉が喉につっかえる。 「だからもう、幸せになってもいいと思うんだ。はやく君が自由になれることを願ってる」 「ありがとっ…ございます」  一言を言うだけで精一杯だった。東條さんは優しくひとつうなずいてくれる。  そしてしばらくしてから立ち上がり。 「あと、これも渡しておきます」 「……なかなかの出来ですね」  零二が手渡された何かのカードを見て目を見開く。  そしてそれが俺の手にも渡された。 「……えっ、これって……」  運転免許証だった。もちろん偽造。驚きでいくらか零れた涙も収まった。まだ泣き声ではあるけど。 「ちょっと……さすがにここまでは違法なんじゃ……」 「仙崎くん、さっき私は言いましたよ、自分は汚い人間だと」  そう言って爽やかに笑う東條さんが恐ろしいやら心強いんだか……   いよいよ俺の頭もパンクしそうだ。 「これで、いざ警察に身分証を出せと言われても多少なら乗り切れるでしょう。そして最後に」  そうして東條さんがとりだしたのは。 「……零二様、これを松澤様から預かりました。『もし息子に会うことがあれば渡してくれ』と……」  それは通帳だった。  零二は首を横に振る。 「東條さん……すみません、さすがにこれは……いただけません」 「どうかそう言わず……あなたのお父様は少しでもあなた方の力になりたいのです。どうぞその意志をうけとってください。それに、仙崎くんを守りたいのでしょう? 何かあれば私も力になります」 「……」  その通帳を零二に力強く握らせて、「……どうぞご無事で」そう一言残して、東條さんは到着した駅で降りて行った。  俺はどうしていいのか分からず、しばらく偽物の運転免許証を握りしめていた。  そして知らず知らずのうちに、ポタッと止まっていた涙がまた一筋伝っていく。  俺はそっと、同じく隣に座って茫然とする零二の手をそっと握った。 「さっきの東條さんって人、だれ?」 「俺の父さんの、秘書」 「マジかよ……。すげー人じゃん」 「そうだな」 「……良い人、だったな」 「あぁ」  世界はこんなにも、温かかったんだ。

ともだちにシェアしよう!