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電車の中で、ふたり。 -B

[視点:松澤零二]  ……千尋の繋いできた手が温かい。  電車はもう発車した。誰も乗ってくる乗客はいないまま、こちらに深く頭を下げている東條さんの姿が遠くなる。  俺は東條さんが渡してくれたスーツケースや偽の免許証、そして……父から預かったという通帳を眺めて静かに息を吐いた。  気が抜けたんだ、と思う。  隣に座る千尋は泣いていた。 「俺のためにこんなことまでしてくれる人がいるなんて、幸せ者だな」  そう呟いて俺の手を握る力を強めた。  ……色んな大人に酷いことをされたお前が、素直に感謝できることが本当にすごいと思う。俺ならきっとできない。千尋は周りの人間がどうでもよかったんだと言ったが、本当にそうだろうか。今の言葉も、いつもクラスのヤツに見せていたあの笑顔も、嘘ではなかったんじゃないか?  そう思ったが、口にはできずにそっと手を握り返す。  電車の中、ふたりだけの時間。  それが心地よかった。今まであんなに朝が来るのを微かに嫌っていた俺が、今はこんなにも穏やかな気持ちでいる。千尋が犯してしまった罪も、俺がこいつを連れ去るという罪も、すべてそれでよかったとなぜか思えた。  ……ほんの少し振り返ってみようか。  そう思い、電車のガタゴトと揺れる音を聴きながら目を閉じる。  ***  ――――……あの最後の日。 「夏休みだああああああ!」  机の中のものを鞄にしまい終えた時、そんな大声が聞こえた。  そしてわぁっと教室内が騒がしくなるのを尻目に、俺は騒ぎの中心に一瞬目をやってから廊下に出る。  すると数秒遅れて待ち望んでいた存在が、まるで逢引きのようにこっそりと教室を抜け出してきた。 「松澤……」  そう言葉が呟かれて笑顔がこぼれる千尋を見て、俺もつられて微笑んだ。  こいつと話すようになってから、自分は笑うようになったんだよなと振り返る。それが数日前からなんだから、本当に今までの話さなかった期間を惜しくも思った。  その時。 「仙崎」  後ろから聞こえた声に俺は嫌な予感を覚え、同時に反射的にビクッと体が大きく跳ねた千尋を見て咄嗟に背後の曽我を睨み付けた。  ……何かある。こいつは千尋に、絶対に何かしてる。そう思えて仕方がなかった。 「こっちに来なさい。頼みたいことがあるんだ」 「……わかった。……ごめんな、松澤……」  強張った顔と、震える声。  それが俺の予想を確信へと変えていった。  ――――……曽我が、俺から千尋を奪っていく。  本能でそう感じた。千尋は俺の物というわけでもないのに。  ただ、目線はまるで恨むとでも言うように曽我の後ろ姿を追っていた。  そして、その姿が消えて。 「……」  俺はフラ……っと彷徨うように、しかし足は図書室へと向かっていた。  しばらくしたら千尋を捜そう。  そう考えて。  後になって、「どうしてあの時、曽我の手を阻まなかったのか」と自分を責めることになるとは思いもしなかった。  *  千尋と話すようになってから、確実に自分の空虚な部分に千尋という存在が入り込んでいく感覚があった。  こいつは俺と同じ感覚を持っている。消えたいと思っている。  それがどんなに嬉しかったことか。  そしてそれに気づいたのが留学する数日前からだということに後悔もしていた。  もっと早く気づいていれば、留学の話も拒否していたはずなのに。  あぁ……でも。  俺は今まで親に逆らったことがない。ずっと言われるがまま、勧められるがままに生きてきて、自分で選んだことなんて最小限だ。  だから正直、拒否できるかもわからなかった。今まで生きてきた十数年の習わしのようなものは、思った以上に重い。きっと年数を積み重ねれば積み重ねるほど、俺は親に逆らえなくなるんだろう。  それでもただ……『千尋』というひとりの人間の傍に、居られればよかった。  ***  時刻は午後六時を過ぎた。  しかし、千尋の靴箱にはまだ外靴が残されたままだ。  明らかにおかしい。見回るはずの管理人も見かけていない。  俺は人の気配がほとんどなくなった学校内を静かに探索し始めた。  そしてしばらくして理科室の前をちょうど通り過ぎようとした時だろうか。 「いやだああああああああああああああ!」  千尋の異様に泣き叫ぶ声と、鈍器が鈍くつぶれたような音。  俺はハッとしてすぐさま理科室のドアを開ける。その瞬間、 「ああああああぁぁああぁああ!」  まるで獣と化したような声をあげて誰かを顕微鏡で殴りつける全裸の千尋が居た。  ***  ……それが昨日のことなんだもんな。  なんだかまるで数日前のことのように感じる。色んなことが起きすぎたんだ。  脳内では見てしまったあのビデオの中の千尋さえ思い出してしまう。それは記憶に鮮明に残って、まるで自分まで千尋を犯しているような気分になり、軽く首を横に振ってその気分を追い払う。  でもこの事件があったからこそ、この俺が。 「親に逆らうなんて、な……」 「……ん? なんか言った?」  涙声の余韻が残ったまま、鼻をすすった千尋が軽くこちらに顔を向ける。  俺は微笑して「……いや、何も」と返した。  今まで親が敷いたレールの上を親が思うままに進んできた俺が自分で茨の道を選んだ。何度も言うが自分でもかなり驚いている。この事件がなければきっと俺は変わらなかったし、千尋と一緒にいられなかった。  この先どうなるかはわからない。  いくら金や警察の目をくらませるものがあったって辛い生活がいつかは来ることくらい予想はついていた。  ……それでも、もう決めている。 「千尋」 「んー?」 「昨日の夜、すごい甘えてきたけどさ」 「……ッ!」  俺がわざと何気ないように話題を振るとみるみるうちにその顔は真っ赤になっていく。 「あ、ああああああれは……、その、もう最後だって思ったからやけくそで……今こうなっているってのは予想もしてなくて……その……ッ忘れてくれ!」  もう何も聞きたくないとでもいうように両手をピッタリ耳につけて屈みこむその仕草が可愛かった。  俺はそっと片耳にあてられた手をゆっくり放そうとする。思ったより力は強かった。でも俺だって引かない。負けじと手を引いて片耳だけは自由にする。 「なんかエロい誘いもされたけどさ」 「やめろおおおおおお! 言うな! もうそれ以上口開くな!」 「……これからも甘えていいけど?」 「……へ?」  俺の提案にパッと顔をあげた千尋は口をあんぐりとあけて目を瞬かせている。  そしてしばらくしてようやく理解したのか。 「だっ……ダメ! ダメだってそれは!」 「どうして。別に何も変わらないと思うけど?」 「だって……」  そう口ごもる千尋は俺から二人分の距離をとって座って俯く。その顔はビックリするほど耳まで真っ赤だった。 「……俺、本当は甘えたがりだったけど、両親がアレでたくさん甘えられなかったから、その分零二に甘えちゃいそうで……」 「別にいいんじゃない?」 「……ッだから! その今までの反動で、人前でも恋人みたいに抱きついちゃったり手つないじゃったりするかもしれねーの! 自分でもリミッター外したらどうなるかわかんねーの!」 「じゃあ外してみれば?」 「おまっ…! イヤじゃねーのかよ! 男に抱きつかれたりするんだぞ!? ホモなの!?」  ……そういうお前は? と聞きたかったが、さすがにそれは意地が悪いかと思ってやめる。 「いや、同性愛に関してはまったく無経験だったけど。というか恋愛系全般。でも、お前が抱きつきたいと思うなら抱きつけばいいと思ってるし、甘えたいと思うならそうすればいいと思ってる」 「……うぅっ……」  俺の言葉に千尋は縦に伸びた手すりに縋りつく様にしながら狼狽えたように俺を見る。顔は真っ赤なままだ。 「……お前って……時々とんでもなく無敵で、こわい……」 「……。はい、どうぞここに座って」 『こわい』と称された俺が有無を言わさぬようにして隣の席をポンポンと軽くたたく。  千尋はその威圧感に気圧されたように渋々俺の隣に座って固くなった。そしてそのままショボンと縮こまる。 「……ほ、本当にいいんだな……? 後悔したって、知らねーぞ……?」  その怯えたような、弱気な言葉が可愛く思えて、俺は昨日したようにギュッと片腕で千尋の体を引き寄せた。 「……いいよ」  抱き寄せると「……ッ!」と息を詰める音が聞こえ、「じゃ、じゃあ……」と遠慮がちな声が聞こえる。 「手……ギュッとして……?」  俺は千尋の手を少し力強く握る。すると安心したかのように千尋が俺にすり寄った。  ……あぁ、なんだかこれっていわゆる恋人みたいだな。  そんなことを思った。恋愛経験なんてまともにない俺は、小説で見る恋人のワンシーンと自分たちの今の状態を照らし合わせるしかない。想像でしか感じられなかった隣の存在の熱を今はちゃんと肌で感じられる。きっとこの先千尋が言ったように人前でこういうことや、これ以上のことをされたところで別に嫌悪なんて微塵も思わないだろう。  …………『これ以上のこと』? 俺は何を考えてるんだ。  未だにこの気持ちの名前に気づけない自分がいる。  ……どうして俺はすんなりとこういうことを千尋に許したんだろう。  わからないことばかりだった。  だけど。  きっとこの体勢でいられるのは次の駅の手前までなんだろうな、ということだけはわかった。  ***  そう、決めているんだ。  たとえこの行く先が辛い生活だって、千尋さえいればそれでいい。  千尋が居なければ、きっと俺は存在できない。

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