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第2章 2-託すもの

  [視点:古書店の店主]  夜の空は、彼方へと追いやられた。  あの子はきちんと自分の道に進めただろうか。  古書店のカウンターにある量りで私は、彼から受け取った封筒の重さを量り、それに見合った切手を貼った。  何があったかは、きっとこの封筒が後々知らせてくれるんだろう。  それまでは、私は何も知らなくていい。  あの子が自分で決めた道だ。私はそっとその背を押すだけ。  私は重い腰をあげて近くにあった杖を手にゆっくりと歩き出した。そのまま店の戸についている札を「一時休業」に変える。  外の空気はまだ澄んでいて、この老体には少し肌寒かった。  近くにポストはあったが、たまには少し遠くまで行こうか。指紋をつけないように受け渡した彼の動きを思い出せば、きっとそれがいい。  大切なお客さんの最後の頼みだ。ここは任されよう。  私は店の戸を閉め切り、一歩一歩と夜明けの街を歩き始めた。  どうか、彼の行く先に光がありますように。  *** [視点:筆者]  とある日の朝、伊瀬ヶ谷県警にはひとつのカセットテープが送られてきていた。  そのビデオ内容を複数人が苦い顔をして見ているときにバンッと大きな音を立てて一人の男が入ってきた。  ――――……本田 健治。彼は昨夜殺された高校教諭である曽我の唯一の親友だった男で、この伊瀬ヶ谷県警の刑事である。  彼は昨日から言動が荒く、落ち着きのない様子だった。  そして仲間の制止を振り切って見たそのビデオの内容に、放心したように固まった。  そのビデオには意気揚々として一人の男子高校生を凌辱する曽我の姿が映っていたからだ。 「やっぱりこれだと、この高校生が恨みを持って曽我を殺した……と考えるのが妥当かな」 「でもここまでされてるんだったら、恨みを持って当たり前かも。突発的な犯行に見えるし、刑は軽くなるだろうね」 「あとはここに映ってるわざわざ自己紹介までしてくれたコイツらを捕まえて、だな」  するとユラ……と前へ出た本田が周りを見据えた。 「こいつは……、この男子高校生の名前は、なんですか」 「本田くん……気持ちは分かるけど君はこの捜査から外されているだろ?」 「名前は! わかるんでしょう!? 教えてください!」  そこで、その場に後からはいってきた中年の男が声をはりあげる。 「……そこでその子の名前を知って、追うとしても君だけだろうな」 「……はい? 何言ってるんですか、課長……」  何をバカなことを、と言いたげな口調で半ば放心したままの本田が課長と呼んだ男を生気のない目で見た。 「松澤グループから内密に情報規制が強くかけられた。マスコミにもこの被疑者である少年の顔写真・名前を公開しないことと、捜査はうちの管轄の中だけで行ってくれとのことだ」 「松澤グループ? どうして松澤グループが関係するんですか! この子は何か関係があるんですか?」 「さぁ、まだ調べていない。ここまで強い情報規制だからな、こちらも注意して動かなきゃならん。むしろ手を付けない方が身のためかもな」 「じゃあ全国規模じゃなくローカルなニュースで留まるってことっすね。俺らもここらで足止めかー」  仲間たちのその言葉に、本田は拳を握りしめた。  ***  午後のこと。 『……おい、ちょっとこっち来い』  怒気をはらんだ声音でそう言われ、どんどんとショッピングモール内を大股で歩く千尋を零二は無言で追っていた。  そしてそのままショッピングモールを出ると外は雨がしとしとと降っている。  目の前の存在は、そんな雨にもいとわずに歩き続けていて。  零二はその様子を見ながら、さっき流れた事件のニュース内容を頭で復唱していた。  被疑者の顔写真も名前も公表されてない。凌辱されたことも「性的暴行」ではなく「暴行」と表現されていた。  それだけでもよかったと感じる。少なくとも自分の中にある怒りは消化できたわけだ。  これであのビデオに映っていた教師たちは逮捕される。犯人が千尋だという事は早くバレてしまったが、それは曽我の鑑識が進み次第おのずとわかったことだ。世間のやつらも「暴行」と「男子高校生」というワードならそれが性的暴行であると結びつけるのはほんの一握りのはず。最悪、千尋の素性がバレても、多少ならその名に傷はつかない。……つけさせない。  しばらく歩いて人気(ひとけ)のない殺風景な場所に出る。  人の住んでなさそうな廃墟と化した住宅アパートや森が近くにあった。  そこでようやく千尋は足を止め、ゆっくり振り向いた。  雨で濡れた髪がいつもはハネている髪をおとなしくさせていて、顔に少し張り付いている。自分も似たような髪をしているんだろう。  その、雨の水滴が頬を伝っていく様子もなんだか少し色気を感じさせた。  そして千尋は伏し目がちに静かに口を開く。 「……あのビデオ、送ったの零二だろ」 「……」  正確には飯島さんだけど。……と言いたかったところだが、それを言える状況ではない。  零二の沈黙を肯定と捉えた千尋はスーツケースを置いて零二の襟元に掴みかかった。 「……ッなんで! なんでそんなことしたんだよ! 俺がみんなに必死に隠し続けてたことを、どうして……!」 「……勝手に送ったことは悪いと思ってる。でも、相談してたらお前は止めただろ?」 「当たり前だろ! 俺は……、あいつらに、先生たちからこんなことされてたなんて知られたくなかったんだよ!」  あいつら、とは甲斐田たちのことだろう。 「でも、名前は公表されてない」 「俺は飯塚にそれを気づかせるような電話をした!」  そうだった……と思い、零二は自分がしたことが良くなかったのだろうかと気持ちが揺らぎはじめ、素直に理由を話す。 「……保険がほしかった」 「……保険?」 「……もし俺がお前を守りきれなくて、お前が捕まることがあったとしたら……その時は少しでも刑が軽くなるようにって思った」 「……ッ」 「それに」 「……なんだよ」 「あのビデオに映ってた他の教師も、……許せなかった」 「!」  その瞬間に電撃が走ったかのように千尋がバッと離れる。 「まさか……あのビデオの中身、見たのかよ……?」  そのときになって、しまった、と零二は思ったが遅かった。 「じゃあ、俺がどんなことされて、笑われて、犯されて……それも全部……」  千尋の表情に恐怖が張り付いていく。 「……ッ千尋」 「来るな!」  零二の一歩踏み出した足が止まる。  千尋は怯えたようにスーツケースにしがみついた。 「おねがい……来ないで……あんな映像見られたと思ったら……俺はどうすれば……」  かける言葉が見当たらない。  零二はそんな自分に歯がゆい思いを抱いた。  すると千尋は突発的に思い立ったようにスーツケースを持ち出して逃げるように走り出した。 「……千尋!」  一瞬のことで反応が遅れ、零二も遅れて走り出す。しかし千尋はすぐに人ごみに紛れて見えなくなった。 「……!」  普段は表情を崩すことのない零二の顔に、焦りが浮かぶ。  今の千尋には通信手段がない。  しかもこんな道も知らない都会の中。  はぐれたら、もうその手を掴むことはできない気がした。  その絶望感に、必死で名前を呼ぼうとしたその瞬間。 「……すみません。ちょっとお尋ねしたいんですが、この顔に見覚えはありませんか? 『仙崎千尋』というそうなんですが……」 「!」  そんな声が少し離れたところから聞こえて零二は建物の影に隠れて機転を利かし、ケータイをいじるフリをした。 「いやぁ、わからないけど……」 「じゃあこっちは? 『松澤零二』というそうなんですが……」 「こっちもわからないけど。ってかこんな人ごみに紛れてたって気付かないっしょ?」 「わかってますがそう言わずに……! 私は伊瀬ヶ谷県警の本田という者です。もし見かけましたらこちらまでお電話ください」 「はぁ……」  そうして聞き込みをしているその顔を遠くから眺める。  しわがれた薄いオリーブ色のコート、長身に細身。ガニ股に猫背が目立つ。顔は痩せこけていて、眼光が鋭く、短髪……。  零二は頭の中に『本田』と名乗った刑事の特徴を叩きこんでいく。  そうして人ごみから離れるように歩いていくその姿を建物の影から見送って人ごみの中へと入り、ついでに先ほど聞き込みをされていた男をチラッと見ると。 「……」  その男性は興味でもなさそうに渡された名刺を一瞥し、近くにあったゴミ箱に捨てて煙草を吸いながらケータイをいじりだした。  零二はそれを見逃さず、物を捨てるフリをしてその名刺を拾って、千尋が走り出した方向へと走り出す。  本田よりも、一刻も先に千尋を見つけなければ。  警察の手はすぐそこまで迫っていた。  ……千尋が、危ない。

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