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第2章 3-交差する想い

  [視点:仙崎千尋]  ――――ポタッ……ポタッ……  不定期に落ちる水の音。  ようやく冷静になった俺が体育座りでうつむいた状態から顔を上げたときには、なんでこんなところに迷い込んだのかわからないけど小川の通る古臭いトンネルのようなところにいた。  天井は狭い曲線を描いていて古い石のレンガ造りになっており、ところどころには苔も生えている。小川の流れは穏やかで浅い。このトンネルみたいなものは橋なのか、頭上から人々の声が聞こえる。  この区間はそれほど長くは続かず、二十メートルほどしたら天井が開けて空が見える。小川に沿って点々と作られたトンネルの様だった。  自分から見て左側のトンネルの終わりでは水が鉛色の空の光を受けながら雨と共に消え、その先が見えない。たぶん三、四メートル下へと一気に水が落ちてるんだろう。  ……なーんて、今いる自分の場所を詳しく分析してみたけど。そんなのはただ現実から目を逸らしているだけだ。 「はぁ…………」  空気よりも重そうなため息が出る。  ……零二にひどいこと言った。というか、よくも考えずに勝手に逃げ出した。  確かに零二にビデオの中身を見られたのは酷くショックだった。いつ見たんだろう。俺が寝てた間……?  じゃあもしかしたら俺が零二に添い寝してもらうときに俺がその……エロく誘うようにしたときには、もう見られてたかもしれないってこと……?  なにそれ……。もう、最悪……。つーか零二も零二でポーカーフェイス過ぎるんだ。まるで俺が……ビッチみたいじゃん。  でも、間違ってはいない。だから余計に腹立たしい。いや、悲しい? 恥ずかしい? ……もうわからない。  だけど本当に知られたくなかったんだ。誰にも。ビデオを見たんだろう警察にも、この事件を知った人にも。そして特に……零二には。 「…………ッ」  またうずくまりながら苛立たし気に一発自分の太もものあたりを殴る。痛みなんてどうでもよかった。  でも確かによく考えれば、俺だって悪いところはある。いや、比率で言えば俺の方が悪いんだ。  本当に見られたくなければ、わざわざ零二の部屋のごみ箱じゃなくて町を出るときに顕微鏡と一緒に川に捨てればよかった。それに零二の言い分だって、冷静に聞けば俺を守ろうとしてくれたからこその行動だ。  その優しさを俺は……衝動で自ら跳ねのけてしまった。  素直に謝りたいと思う。謝りたい。「ごめん」と、ただそれだけでも。  でも、俺まだ零二の電話番号聞いてない……っていうか……  俺は自分のポケットを探るが当然のように何も入ってない。 「スマホ……もう捨てたんじゃねーか……ほんっとバカじゃん、俺……」  言葉の最後のあたりで涙がこぼれた。  こんなに広い、土地勘のない都会の中。たくさんの溢れかえる人、ヒト、ひと。  しかも警察に追われてるだろう俺の身分。  零二のこと、好きだったのに。初めて本気で好きになれた人なのに。  きっともう、会えない。  ……俺は水が落ちて雨と交わるその先をぼうっと眺めた。  零二にもう会えないのなら、逃げる意味なんてないだろう。  零二は俺の苦しみも分からないやつに引き渡したくないと言ってくれたけど、その言葉だけでも十分嬉しいよ。  大丈夫。怖いけど、零二がこの空の下で生きてるなら、俺もなんとか狭い塀の中でも生きていけるはず。  雨が止んだら、自首しよう。  ただそれまでは……零二のこと、想っていたい。  * [視点:松澤零二]  ……千尋が警察に追われている。急がないと。  自分も追われているが、そんなことなどどうでもよかった。  俺はスーツケースを邪魔に思いながらも無理くり引っ張りながら人込みの中を探す。目印はきっとオレンジのスーツケースだ。  しかし道行く人々は隙間なく行き交い、とてもキリがなかった。  さらに人々の差してる色とりどりの傘が自分の視界をさらって揺るがせる。道行くオレンジに目が反応したかと思えば、それは子どもの持つオレンジ色の傘だった。  ――千尋、千尋……!  雨の中、俺を叱責したあの顔。そして俺にビデオを見られたと知ってショックを受けた顔。そして「来るな」と言って怯えた顔……。  千尋にあんな表情なんてさせたくなかった。配慮ができない俺のせいだったと思う。もっとしっかり話せば……ビデオを警察に送る件だけでも、わかってくれたはずなのに。  俺は今まで自分がなんでもできる人間だと思っていたが、そんなのはただの勘違いだった。  俺は……人の気持ちを考えることのできない、人に頼ることもできない人間だ。  ようやくそれに気付けたのに……一番に謝りたいお前が俺のせいで居なくなってしまった。  嫌だ、手放したくない。  あの夜、千尋を抱きしめて眠ったときの充足感を思い出す。「生きている」と感じることができたあの時。  それがもう感じられなくなるなんて。  あの笑顔が見られなくなるなんて嫌だ。  どこからか湧き上がってくる執着がぬぐえない。「人」に関心を寄せない俺にはなかった、初めての感情。  きっと俺の心の隙間の中にあいつがピッタリと埋まってしまったんだ。  もう俺は……たとえお前が警察に捕まり狭い塀の中に入れられて気丈に生きていたとしても、耐えられない。  お前がいないと、生きていけない。  * [視点:本田健治]  その知らせを受けたとき、「まさか」と思った。  曽我が死んだ。殺された。  曽我とは古くからの友人だったが、お互い中年でいい歳になると、会うことも昔のように頻繁にはいかなくなっていた。それは、曽我が教師になり、俺が刑事になり……それぞれの仕事が忙しくなったからというのもある。  数年前、居酒屋で飲み交わしたときに曽我は神妙な面持ちで言った。 「本田……、俺はさ、別になりたいと思って教師になったんじゃない。実際向いてないと思うんだ」  曽我はもともと活発というよりも断然、地味で消極的な人間であったが、その顔は数年来で見るからか異様にやつれているように見えた。 「どうしてそう思うんだ」  そう聞くと、曽我は悲し気に笑う。 「生徒が俺をバカにしてるんだ。完全に舐められてる。授業も分かりづらいとかなんとか……どうにか分かりやすくなるように工夫はしてるつもりなんだが、外見のせいもあってか、ダメなんだ」 「…………。良い気がしねぇな。人の努力を踏みにじって笑う、しかも世の中を知らない若いやつらにはよ」  舌打ちをしてそうぼやく俺に曽我は羨ましそうな顔をした。 「俺はお前が羨ましいよ。他のやつには妬むが、お前には素直にそう思う。なりたい職業になって、実際活躍してるじゃないか」  …………あの時の曽我の表情こそ、今思えば最後に見せた本来の表情だったのかもしれない。  少しおかしいと思ったのは刑事の仕事が忙しくなってきたとき……今年の春ごろ、「どうしても」と言われて誘われた酒の席だ。  あの時の曽我の目は見違えったように輝いていた。まるで例えるなら躁病の人間のように。いや、ドラッグを使ってハイになってると表現した方がわかりやすいか。  あまりに心配だったから腕なんかをそれとなく調べたが注射痕はないし、目の焦点もあってはいた。  話の内容は、俺が疲れていたせいもあってあまり覚えていないのが悔やまれるが、確か「やっと生きがいを見つけた」という話。 「……もうそいつのことしか考えられないんだ。四六時中、ずっとだ。いつかは自分のものにしたい」  そう言うもんだから、つい俺は勘違いして惚れた女でもできたのかと酒に酔った頭で思っていた。 「そいつの存在があるから、俺は学校でも頑張れるようになったんだよ。まるで『魔性』だよ、あいつは……」 「そりゃあよかったじゃねーか。大事にしろよ」  ……そんなことを俺は言ったような、言ってないような……。  でもそれがまさか生徒で、しかも男子だなんて。  信じられなかった。  何をどうして、あいつは変わってしまった?  ビデオを通してみた曽我はまるで別人だった。でも、今まで見た中で一番幸福に満ちた表情をしていた。  確かに、あの男子高校生が恨みを持ってあいつを殺すのも、頭ではわかってる。許す許さないの話でないのなら、わかるんだ。  あぁ……でも許せない。  曽我はあの男子高校生に、『魔性』に、狂わされたんだ。  じゃあ一緒に逃げてる松澤グループの息子も、その魔性にあてられてんじゃないか?  早く、仙崎千尋を捕まえなければ。  *** [視点:筆者]  雨は、まだ止まない。  零二は一人、スーツケースを未だ鬱陶しそうな目つきで時折見やりながらあたりに視線をめぐらす。  諦める気は毛頭なかったが、それでも何か別の手段を打たなければならない気がして、その顔に焦りが浮かんでいた。  ふと、零二は屋外のテラスのようなところで大きなパラソルの下、ドリンクを飲む女二人を見つける。  直感が何かを告げた。  しかし、『人に何かを尋ねる』と言ったことを今まであまりやらずに生きてきた零二は、う……、と呻くように躊躇う。  だけど千尋が。  もう俺は変わったはずだ。親の束縛からも逃れた。  いや、それは千尋がいたから……。違う、居なくても、変われる。  零二はひとつ深呼吸してその二人に話しかけた。 「……すみません、ちょっと聞きたいんですが」  すると女性二人は零二の外見を見てか、パァッと急に表情を明るく変え。 「わ、ずぶ濡れじゃん! ちょっとこっち入んなよー」  と言って零二をパラソルの中へ引きいれた。零二は一瞬引きつった顔をするが、すぐに平静を装う。 「あの、これと同じ種類でオレンジ色のスーツケースを持った、金髪の少年を探しているんです。背は少し低めで……」  千尋のことを『少年』と同い年の自分が形容するのがおかしかったが、それ以外でどんな言葉で形容すればいいのかわからなかった。  千尋は、『友達』? 『知人』? ……なんか違う。  そんなことを頭の隅で茫然と考えていると、片方の女性が「あー!」と大げさに声を上げる。 「それってさっきの子じゃん? 『あの子可愛いよねー』って話してたさぁ!」  その言葉にすぐさま反応する。 「あぁー! 『スーツケース持ってるってことは観光かな?』って話してた時の子? それかもー」 「……ッそいつ、どの方向に行きました!?」 「えっとー、あっち。坂上ってったよ。あの子泣いてたけど、大丈夫?」 「すみません、ありがとうございます!」  女の問いかけに答える余裕などなく、零二はすぐさま言われた方へ走る。  言われた坂は人で混雑していて、道の端へと追いやられる。それでもなんとか負けじと坂をのぼっていると。 「お兄さん、これどーぞー」  必死なこっちのことなどお構いなしに、風俗のチラシが配られる。  今どきこんなのが配られてるのかと思うと同時に、なんだか腹立たしかった。  そして坂を上り橋の上に来たとき。  ――――ビュンッ 「ッ!」  ひときわ強い雨と風が吹いてそのチラシが吹き飛ばされる。思わずその方を目線で追うと。 「え……」  自分から見て右の向こう側にある橋の下で、見覚えのあるオレンジのスーツケースがほんの少しだけ見えた。  * [視点:仙崎千尋]  雨は止まない。  だけどそろそろいいだろうか。  零二にたくさん、本当にたくさん謝った。たくさん、好きだと言った。小声だけど、口でも言った。  今まで、ありがとう。  さっきまであれほど泣いたのに、また涙が流れた。  本当に俺、報われねーな。この服だって、せっかく零二に買ってもらったのに。捕まったら、とられちゃうじゃんか。 「……っく……」  そのとき。 「千尋!」  …………え?  ついに幻聴まで聞こえ始めたのか。それとも夢? 少しの胸の高鳴りに顔を上げる。  ダッダッダッダッと走る音と、ゴロゴロと地面をローラーが回る音。 「……うそ……」  俺がその姿を目で認識した瞬間には抱きしめられていた。その後ろでスーツケースは乱暴に倒れる。  首元に、しっとりと濡れた黒髪。抱きしめられたところから感じるぬくもり。倒れこむように抱き着かれて、俺は急いで片腕を地面につかせて受け止める。 「れい……じ……?」 「千尋……! もう、会えないかと思った……」  涙が一層あふれ出した。俺からも強く強く抱き返す。 「零二……っごめ、ごめんなさっ……」 「俺こそ謝らないとならない。……悪かった。お前の気持ちを考えなかった俺も悪い」  しばらく強く抱き合ったまま放さなかったが、零二が急に何かを思い出したように体を離し、両肩に手を置いてじっと俺を見据えた。 「そうだ……、ひとつ、冷静に聞いてほしいことがある」 「な、なに……?」  すると零二はとある名刺を見せてきた。それを見て背筋が凍る。『県警』という文字に。 「この『本田』という男がもうこの街で俺たちを探し始めてる。他にも俺たちを探してるのかはわからないが……こいつはオリーブ色のコートを着てる。もし見かけたらすぐ注意しよう」 「う、うん……っていうか、こいつの顔、見たのか!?」 「偶然な。俺はヤツの外見をしっかり見たからいいが、千尋が心配だ」 「そっか……もう、ここまで来てるんだ……」  俺は半ば諦めたような表情で力なく笑う。もう逃げるのは疲れた。身体的な意味でも、精神的な意味でも。だから捕まればこれで終わる。そんな悪魔のささやきのようなものが聞こえてくるようだった。  でも零二はそんな俺の肩を掴みなおした。  驚いてその顔を見るとひどく真剣な顔つきで、こっちも真剣な顔になる。 「……まだ諦めるな。終わってない」 「ご、ごめん」  そのとき。 「見つけたぞ!」  零二の背後の開けた部分から見える橋の上で、そんな声が聞こえた。  ぞく……っと嫌な予感が背を駆け抜けていく。  零二はバッとすぐさま俺を抱きしめ、殺気立った目を橋の上へと向けた。……まるでいつもの零二とは別人のように。  そのことにも動揺したが。  橋の上には、オリーブ色のコートを着た刑事が立っていた……――――

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