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第2章 4-はじめての感情

  [視点:松澤零二]  千尋を見つけて抱きしめたとき、形容しがたいような胸にこみ上げる何かがあった。  あの刑事よりも先に見つけられたこと。そして何より、このよく知らない街の中でこうして再び千尋と会えたこと。  もうほとんど、奇跡と言っていいはずだ。  そんなことを思いながら腕の中の存在を抱きしめる力を強くする。  今まで散々、微妙に重いスーツケースを無理やり引っ張りながら走り回っていたせいで疲労はかなり溜まっていて、千尋にほぼ体重を預けてしまっていた。  なんだか俺が千尋を押し倒したようになっている。でも千尋は怒らずにまるで幼い子どものごとく何度も「ごめん」とか「ごめんなさい」と謝りながらしがみつくように俺に抱き着いていた。  ……もう駄目だ。この手を放しては。  心の中でそう固く誓う。  千尋は罪の意識を持ってる。心のどこかでは「自首して償わなければ」と思っているからこそ、俺が手を放してしまえばするりと風が抜けてくように俺の前から消えてしまいそうだった。  そうなれば、俺は『置いてかれる』。  まるで自分の半身を奪われたような気分になるだろう。  あのビデオの存在と『未成年』という立場から、おそらく千尋が捕まっても死刑にはならない。  仮に千尋が自ら死ぬというのなら、俺も厭わないだろう。やることは決まっている。引き止めはせず、『別の場所』で再び会うことを選ぶだろう。  でも、生きたままずっと会えないならば。  たとえいつか刑務所から出られるとしても、それまでの期間は? 俺はどう生きればいい?  もう色のない世界に戻るのは嫌だ。灰色の日々を送るなんて苦痛だ。幸せを知ってしまったからこそ、後戻りはできないからこそ、もう手放したくない。  …………そうだ、そうならないためにも。 「ひとつ、冷静に聞いてほしいことがある」  その言葉に身体を放して改めてしっかり見据えた千尋の顔が緊張に固まるのを見る。 「な、なに……?」  そして一枚の名刺を見せ、あの『本田』と名乗った刑事のことを説明すると、千尋が諦めたように力なく笑うものだから。 「……まだ諦めるな。終わってない」  さっきの不安は的中した。そんな顔をしないでほしい。俺の行動が間違っていたのかと、覚悟が揺らぐから。  ……人の表情を見てこんなにも胸が痛くなったのは一体いつ以来だろう。  そしてそんな時に限って。 「見つけたぞ!」  俺の背後……上方から数十分か一時間ほど前に聞いた、若干掠れた男の声が響いた。  ――――来た!  本田が、俺がさっき千尋を見つけた時に居た橋に立っている。周囲の人間が一瞬ざわついた。  千尋が殺人犯で本田が刑事であることを知って、周囲の人間までもが敵に回ったらおしまいだ。まずい……! 俺は怯える千尋を抱きしめた。  しかし本田は血の気が立っていて、自分が刑事であることを周囲に名乗ることを忘れているのか、そこから俺たちに向かって大声で怒鳴りつける。 「ようやく見つけた……! 案外あっさり見つかるもんじゃないか」 「…………」  俺は無言で本田を睨み付ける。腕の中で千尋の体が強張ったのを感じた。それは誰に? 本田に? ……俺に? 「おい、松澤零二! よく聞け、曽我は元々あんな男じゃなかった。それを変えたのは、その仙崎千尋だ! 狂わされたんだよ、『魔性』にな!」  その言葉に千尋が俺の中から身を乗り出して本田に見えるように大きく首を横に振った。 「違う! 俺はそんなこと……!」  千尋の様子を見た途端に本田の顔は忌々しい物を見るように歪められる。 「うるさい! ……松澤零二、正気に戻れ! お前はそいつに狂わされてるんだぞ、はやく目を覚ませ!」  その言葉がなぜか胸に刺さった。反論する言葉が口から出てこない。  ……狂わされている? 俺が? 「……零二……? 嘘、だよな……?」  動揺したように千尋は上ずった声で俺に呼びかけるが、俺はその声をどこか遠くのもののようにぼんやり聞いていて。  ――――確かに、狂わされているのかもしれない。  胸に生まれたのは、肯定だ。  現に俺はこいつと出会ってから変わり始めていて、二人で行動してからは特に……今だって、まるで死んでたように生きてた俺が『殺気』という(せい)の衝動に近いものを宿し始めている。こんな感情も初めてだ。  曽我も、そうだったんだろう。あのいつもは冴えない表情をしていたあいつだって、ビデオの中では見違えたように、『生きていた』。性への衝動、欲望。これらも生きる上での人間に必要な材料だ。  俺も曽我と同類なのか? いつかは千尋をあんな風に……。  千尋と俺の動揺を見た本田は後方と前方を何度か見て、こちら側へと走り出した。 「零二、あいつが……!」  怯える千尋が俺に呼びかける声を聞いて、ゆらりと立ち上がる。千尋の手も引いて立ち上がらせた。 「……千尋、こっちに」 「え……?」  スーツケースを引いて靴が濡れることも構わず浅い小川の反対側へ渡り、水が落ちている方へ歩き出す。千尋は何か雰囲気の違う俺に恐れを抱いているのか、数歩後ろを歩いた。  そしてトンネルの終わりに近づいたとき。 「……良い子だ」  本田がわずかな坂を駆け降りる音と共に突如、目の前に姿を現した。後方の千尋が「ッ!」と息をつめたのがわかる。  目の前の刑事はニヤリと笑いながら俺に手を差し出した。 「お前だけならまだ罪は軽い。大丈夫だ、悪いようにはしないさ」  だが次の瞬間。  ――――――ガッ!  目が血走り、全身の血が一気に沸き立つ感覚と、狂気。 「がはッ……!」  本田が俺のスーツケースで薙ぎ払われ、三、四メートル下の小川が通るコンクリート部分に突き落とされる。  俺は無表情でつぶやいた。 「――……狂わされてたって、構わない」 「う……ぐっ、このッ……!」  眼下で身体を打撲し、呻いている男を見ても何も思わなかった。この男をこんな目に遭わせたのが自分だろうと、罪の意識もなかった。 「零二っ……!? お前、なにやって……!」 「行くぞ」  その行動に完全に恐れをなした千尋が本田を見てから震えたまま俺の腕にしがみつくが、俺はすぐにスーツケースを持ち直して千尋の手を取りながら走り出す。 「おい、待てって……!」  その言葉も、今は聞かない。  本田が下りてきた土と雑草で形成されたわずかな坂を重たいスーツケースを引きずりながら登る。もう体力は残りわずかだが振り絞るしかない。すると、数人の人間が俺たちと小川で未だ呻いている本田を交互に見て困惑していた。  でもそのどれもが、俺には主体性の欠けた人間に見えて『大丈夫だ』と確信する。誰もが心配そうに本田を見て、恐れるように俺たちを見るが誰一人として救急車や警察に連絡をしない。まるで善良な市民の皮を被った野次馬だ。偽善者にすらならない。中にはスマホで本田の写真を撮る物好きもいた。そのカメラに俺たちが写らないようにすぐに人込みの中に紛れ込む。  俺はどこかその人間たちを軽蔑するような目で一瞥してから人の間を縫って走り、バスが五台ほど点々と停まってる部分に目をやった。見たところすべて市街循環型のバスのようだ。  ここでひとつの賭けをして、俺はそのうち一つを選んで千尋と乗り込む。  状況が見えるようにとあえて本田が居る位置が見える二人用の座席に、千尋を奥にして座った。バスの中は次第に人で混雑してくる。早く出発してほしいと、今はそれだけを願った。  隣の千尋はじっと本田の居るであろう小川のあたりを見張っているが、手が小刻みに震えていた。  * [視点:仙崎千尋]  ……零二が本田っていう刑事を突き落とした。  その光景があまりに信じられなくて、脳裏に焼き付いて離れてくれない。  まるで別人のようだった。もしかしたら、曽我を殺した時の俺と姿を重ねてしまったのかもしれない。  あんな暴力的な一面が、零二にあったなんて。 『あった』? 違う……俺が零二をそんな風に変えてしまったのかもしれない。本田は言ったんだ。零二は俺に狂わされてるって……。  そのことを考えると手が震えて止まらなかった。  すると、そのとき。 「あ……!」  目を離さずバスの座席から見張っていた小川の方の坂から、あの刑事が痛々しくよろけながら上ってきた。背筋に冷や汗が伝い、すぐさま窓から顔を離して零二に伝える。 「来たッ……」  小声で放ったその一言だけで零二は察したのか、俺を隠すように引き寄せながら共に本田の動向を見張る。  本田はあちらこちらと顔を向け、痛めたのか腰に手をあてながら片脚を半ばひきずる形で動き出す。その歩き方にしては速度はかなり速く自分たちに対する執念を感じて恐ろしくなった。  まるで曽我の亡霊が憑りついているとでもいうようなその動きは、事件の夜に見たあの悪夢を思い出させてさらに怖くなり、隣の零二の手をぎゅっと握る。  本田は零二が目をつけたのと同じく市街循環型のバスの停車場所へ移動し、別の一台に乗り込んでは乗客を見回し、居ないと判断しては出てくるのを繰り返し始めた。  このままだと、ここも……!  隣の零二は冷静になるようにか、目を閉じて一呼吸している。そして目を開けたときはまだ焦りがわずかに残っているものの、覚悟を決めた表情をしていた。  ……どうしよう。俺は、どうすれば……!  そんな時、幸運にも。 『バスが発車いたします』  そのアナウンスが鳴り、バスのドアが閉まった。 「「!」」  俺たちはバッとすぐさま顔を上げ、一瞬目配せをして窓から見えないように体を隠す。  なんとか逃げ切れた。  その事実が俺たちに安堵のため息をつかせる。  そうしてバスがしばらく走ってからようやく体勢を元に戻した。俺たちはもう一度ため息をつく。 「万事休す、ってやつかと思った……」 「そうだな。でもあの刑事……そう簡単に諦める気がしない」 「うん……」  そんな会話を小声で交わした後は、お互い何も喋らなかった。……喋る気力がなかった、と言った方が正しい。  隣の零二を盗み見れば、その端正な顔は酷く疲弊しきった表情をしていた。俺よりも濡れた髪、伝う雨の雫に、まるで深い闇のように何も映していない瞳。  ……零二をこんな風にしてしまったのは、俺だ。  俺は零二の両肩に手を乗せ、そっと自分の方へ倒す。零二は何も喋らず、抗うこともせずに俺の膝の上に頭を乗せた。少し窮屈かと思いきや、バスの構造上思ったより席の横幅は広く、零二も寝苦しそうには見えない。  代わりに、安堵したような息がその形のいい唇から漏れる。俺はその頭を優しい手つきで撫でながら、思考にふけった。  頭の中はやはり支離滅裂で、様々なことを考え始める。  まずはぐったりと横たわる零二を茫然と眺めた。それから視線を目の前のスーツケースに移す。  俺たちのスーツケースはこれから始まる逃避行に向けてある程度物を揃えたためか多少重量があり、零二はこれを引きずりながら雨の中で俺を探して走り回ったのだろうと思うと胸が痛くなった。  俺は風邪をひかないようにと、自分のスーツケースからタオルを取り出して零二の髪をそっと拭く。体には零二に買ってもらった上着のフリースをかけた。そしてひとつ行動してはまた思考にふける。  本田という刑事は、曽我が俺によって狂わされたといった。聞いた時は、「なんだよ、それ」って思っていたけど。  あの家庭訪問の時、俺を押し倒したあいつに誘われた曽我の目を思い出せば。……たしかに、生気のなかった目に血が走ったように見えた気がした。  それから曽我は変わったんだ。そして今回の零二だって……あんなこと、するやつじゃなかったはずだ。  じゃあ、元凶はすべて俺?  そんな、まさか。俺は被害者じゃなかったっていうのか?  義父からのレイプも、曽我や先生たちからのレイプも、俺が『狂わせた』から?  だとしたら、やっぱり零二をこんな風にしてしまったのも……俺? 「…………ッ」  俺は膝に乗せた零二の頭にかぶさるように身を屈めて、疲れ切って眠っているその体を抱きしめた。  また泣きそうだ。精神はすでにボロボロだった。まるで傷口に塩でも塗り込まれたかのように痛い。でも、今はこれ以上零二に縋ってはいけない。  零二だってこんなにボロボロになってしまった。俺を守ったからだ。俺のせい、なんだよな。  なぁ零二……、俺たちは一緒にいていいのかな。

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