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第3章 1-お互いが、お互いを想うということ

  [視点:松澤零二]  ……最近、千尋が食事を抜く様になった。  *  もうあれから何か月経ったか分からない秋のこと。  知らない街のコンビニで俺は声をかける。 「何食べる?」  するとあいつは柔らかく苦笑して聞きなれたフレーズを言った。 「……ごめん、俺いいや。ちょっと食欲無くってさー」  頭を軽く掻きながら困ったようにヘラヘラとしているその笑顔。  そういう表情を見る機会が最近多い。 「……、……わかった」  そうして俺の頷きを見た千尋が先にコンビニを出ようとした時。 「……あ! 零二、やっぱ俺これ食べたい!」  そう言ってキラキラと光る笑顔で指差したのは肉まんだった。  ……ちょうど、安売りをしていたらしい。  ***  俺たちは街を出てからというもの、本田から逃げることで精いっぱいで。  そのせいか俺たちの中に存在する空虚な何かの共有ができる時間もなく、ただただ体力と気力、そして金まで無くなっていった。  いや、胸に空いた隙間に疲れが溜まっていったのかもしれない。  俺でさえそんな状態なのだから、千尋はもっと辛い思いをしているんだと思う。  そしてその『空虚』が感じられなくなっていくと、自然と俺たちの距離は離れて行ってる気がした。  生活で言えば、コンビニやスーパーの惣菜を買って食べて、泊まる場所が見当たらなかったら公園のベンチで寝る。そんな一日。  抵抗があったのは最初だけで、たいして自分がどうなろうと構わない俺からしたら些細なことだったが、千尋は泣きそうな目をしながら「ごめん」と言ったのはよく覚えている。  でも確かに、寝ている間に金品を盗まれたら……とか、本田に捕まったらと思うと気が気でなくて深く眠れることは少なくなっていた。  千尋と行動するようになる前の俺と、今の俺。  どちらが果たして「生きている」と言えよう。  ***  夜になって、はらはらと雪が降り始めた。  まだ積もるほどではないけれど、最近は雪が降る日が多くなってきた気がする。もう冬に近いのかもしれない。  俺たちは人目のつかないさびれた公園のベンチに座った。  俺の手元にあるのはレジで暖めてもらったトンカツ定食で、隣に座る千尋は肉まんひとつだけ。  こいつと自分の間に置かれているのは俺が買った500mlの温かいお茶のペットボトルひとつ。  飲み物も、千尋は買わなかった。  ……欲しいと、言わなかった。 「あー、美味いっ! やっぱ冬になると肉まん食べたくなるんだよな!」  そう言って嬉しそうに肉まんを頬張る千尋に、俺は微笑して「そうだな」と一言返す。  ……食欲のないヤツがそんな顔普通するか? 「零二も一口食う?」  俺に食べかけの肉まんを近づける千尋の顔を見て、その手に持たせたままかぶりつくとその笑顔は一層嬉しそうになった。 「うまいだろ?」 「……だな」  そして今度は俺が自分の手元のとんかつの中で一番大きいやつを千尋の口元に持っていく。 「こっちのとんかつも食べてみろ、うまいから」  すると千尋は一瞬戸惑った顔をした。 「え、いーって、なんか悪いし……」 「肉まんくれたお返し。……ほら」  俺が半ば押し切るようにさらにとんかつを千尋の口に近づけると、一度は遠慮したその口がおずおずとくわえこんだ。  結構大きかったせいで多少苦労しながら精一杯口の中にとんかつを押し込み、千尋は照れたように笑う。 「んーっ、これもうまい! コンビニのやつにしてはなかなかだな。零二が作ったやつの方が美味かったけど」 「俺のは別に……。でも今度はちゃんとした店のやつが食いたいかも」 「ははっ、それ賛成!」  ……いざ俺が店に誘ったら遠慮するクセに。  俺の心の声にも気づかない千尋は何か夢でも見てるような表情で雪が降る空を見つめる。 「なーんか、人のいない公園でこうやって食べさせあうとカップルみたいだな。俺リア充じゃん!」 「『カップルみたい』か……」  俺がそう感慨染みた声を出すと千尋は慌てて今の言葉を撤回した。 「あ、あー! 今のナシ! 気にしなくていいから!」  もちろん、気に障ったわけじゃなくて。 『カップル』……つまり『恋人』?  千尋が、恋人?  恋ってなんだ。愛って、どんな感情? ……俺にはわからない。  ただひとつだけ確かなのは、千尋が俺と同じような感情を持っていて、まるで俺の片割れのように感じるほど大切だということだ。  だから……。 「……いや、こうやって二人で色んなところに行ってるなら、この際それで良いかもなって思っただけ」  そう淡々と思ったことを呟くと、千尋はほんのりと顔を赤くして黙り込み、再び空を見つめる。  …音のない、数秒の()。  ふと、千尋が小さな声で言った。 「俺……今すげぇ幸せかも。 たぶん、あの学校に居たときよりもずっと、幸せだと思う」  その言葉はまるで千尋が自分自身に言ってるような口ぶり。  空を仰ぐその満たされたような、夢見心地のような笑顔に心がざわついた。  思わずハッとして、それを隠すように食事を続ける。  しばらくして俺が食べ終わったころ。 「……寒くない? ……俺が暖めてやるよ」  そう言いながら千尋が俺の前に立って片膝をベンチに乗せ、その両手を俺の頬にあてた。  肉まんを持っていたからなのかその両手は心地良いほどに温かい。  俺はそのまま千尋の顔を見つめた。  その気遣った笑顔には少し、疲れの影が見えている。  あの頃の……学校で友人に囲まれていた頃の明るい笑顔との違いに、苦しくなった。  もう少しで消えてしまう命のように感じたから、かもしれない。  あんなに輝いて活き活きとしていたあの姿が、今はもうこんなにも弱々しいものになっている。  ……そうさせてしまったのはあの穢れた大人じゃなくて、俺かもしれないな。  そして、俺も俺で変わったのだと同時にぼんやりと思う。  あの頃は一人でも平気だとずっと考えていたというのに、いつの間にかこいつを失うのが怖くなっていた。  いつからか、自我を示すようにもなっていた。  俺は目の前の体を抱きよせる。その体も、ただでさえ痩せていたのに更に随分と痩せた。 「わっ、零二どうしたんだよ。ビックリしたじゃんかー」  そうしてじゃれつくように千尋も俺に抱きつこうとするが、 「……ッ!」  ……突然ハッとして俺の体から離れた。 「あ、ごめんトイレ行ってくる!」  そう言ってバタバタと走ってくその姿に違和感を感じて、俺は静かにその後を追う。  *  千尋は公園のトイレではなく、その裏にある木陰にいた。 「……っ」  ……腹が、鳴っていた。  それもそのはずだ。だってこいつは朝も昼も同じ言い訳をして食べなかったんだから。  俺は背後から静かに声をかける。 「……何か、買ってこよう」 「……ッ!」  突然聞こえた俺の声に千尋の背がビクッと震えた。  そして振り向かないまま口を開く。 「なっ……なんで後つけてきてんだよっ……」  声が、震えていた。  俺は無言でその体を抱きしめる。  わかっていた。  こいつが最近食事を抜く理由が。  何か買ったとしても安い値段のものしか買わない理由も。  ……それは、俺の金を使って生活しているからだ。  俺は静かに千尋に言い聞かせた。 「……金の心配なんて、しなくていいよ」  確かに働きもせずに逃げてばかりいる現状では、いつかは金がなくなることも目に見えている。  でも、だからと言ってたいした食事もせずに衰弱していく千尋を見たくはなかった。  あの頃から見て痩せてしまった元々細いその体も、切る余裕がなくていくらか伸びたその髪の毛も。  見て、触るたびに胸が締め付けられる。  そして無言でいる千尋の顔を覗き込むと。 「…………」  その表情は、泣いていた。 「……零二っ、俺、無理だ……」 「……なにが」 「お前には嘘つかないって決めてたけど、そんなことできねぇよ……。迷惑になるもん」 「千尋」 「でも俺、おまえの前で嘘つくの下手だからっ……隠そうとしても結局こうやってバレるし、また迷惑かけてる。俺、どうすればいんだよ……っ」 「迷惑なんかじゃないって」  俺がそう言うと千尋は涙をぬぐいながら首を横に振る。 「俺はお前の人生ぶち壊してる……。なのに俺はお前に何もしてあげられない。どう見たって釣り合ってないじゃん、関係が……」 「……」 「俺がお前の元からいなくなれば、きっと良くなるんだと思ってる。でも俺、自分からお前と離れるなんて、前みたいに根性ないからできなくて……っ」  千尋が必死に言葉を紡ぐ。その姿がどうしようもなく心を苦しくさせた。 「それで思ったんだ……。俺はお前の傍に居させてもらえるだけで幸せなんだから、せめて俺に使う金くらいは減らさなきゃって……」  そして千尋は泣きながら無理やり笑みを作る。 「だから、俺はこのままでいいんだ……」 「なにを」  何を、言ってる。 「腹減って死んだっていいんだ。俺、最後まで幸せだから。ずっと笑ってられるから……」  そんな姿見せられて、俺がどんな気持ちになるかお前は分からないのか?  千尋は言葉を無くしている俺に抱きついて静かに言った。 「ねぇ、零二」 「?」 「……いざとなったら、俺を捨ててね」 「――――……」 「俺を売ってもいいよ。たぶん多少は、金になると思う」 「……」  黙り込む俺に心配するなと千尋は笑う。 「だーいじょぶだって! 男に抱かれるの慣れてるし、それに……。……それに、それが零二のためになるんだったら俺、どんなことでもできる……」  ……俺のために男に抱かれる、だと? 「俺、今からでもいけるよ。朝までには帰ってくるから。だから……ねぇ、キスしてもいい?」 「は……?」  千尋が涙で濡れた顔を近づけてくる。その表情は……本気で俺を求めている、顔だった。  あの夜行列車の時とはまったく違う、純粋で残酷な願いだ。 「これで最後だから……、……おねがい」  ……だめだ。 「……っ」  俺はとっさに千尋の口を手で押さえていた。  千尋は俺の反応に一瞬ひるんで、「あ、ごめっ…」と言いながら、ショックを隠せない顔で笑みを取り繕う。 「そう、だよな。零二は一般人だもん、こっちの世界に引きずり込んだら悪いよな。気持ち悪いことして、ごめん。……忘れて」  そう言って千尋はどこかへと走り出そうとし、俺はすぐさま腕を掴んで引き止めた。 「どこに行くんだ」 「だ、だいじょうぶ、だから! 零二はホテルで待ってて。朝までには戻るから……っ」 「千尋!」  千尋が一瞬振り向いたときに見えた涙に動揺した隙に、千尋は俺の手を振りほどいてどこかへと走り出した。  思わずその場に立ちすくむ。  俺がいけなかったのか?  あの時、キスを拒んだから。だけどあそこで受け入れていれば『最後』になってしまったはず。  いや、それとも……。 『俺……今すげぇ幸せかも。たぶん、あの学校に居たときよりもずっと、幸せだと思う』  あの満ち足りた表情をさせた言葉のあとで、俺が突き落とすかのように拒んだからか?  その可能性は高い。もっと真剣に、『恋愛』って感情について考えるべきだった。  ずっと前からそうだったじゃないか。  千尋を家に連れ帰ったときも、裸の千尋を抱きしめた。手も繋いで、何度も指を絡ませて。……あの夜行列車で抜くのも手伝って。  普通なら、そんなことできない。千尋だからこそ、なんの嫌悪感もなくできた。  それは千尋に惹かれていたからじゃないのか? 自分の片割れのように……なんて、ただ言葉で飾っただけだ。  ……ひとつの答えが浮かんだとき、俺はハッとする。  千尋はさっき、俺のためなら男に抱かれると言った。  そして朝までには戻ると。  嫌な予感しかしない。  俺はどこに向かえばいいか分からぬまま走り出した。

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