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第3章 4-すれ違い
[視点:筆者]
ラブホテルの一室に千尋と男はいた。
千尋は沈んだ表情のまま俯きベッドに座っている。それを見ながら男は千尋の目の前に立つ。
「本当に後悔しないんだろうな。俺は知らないぞ?」
千尋の瞳に光はなく、ただその言葉を聞くと昔にこれとよく似たフレーズを聞いたなと感じただけだった。
……そうだ。俺に「大丈夫か」と事前に聞いてくれたあの人だ。
俺が押し倒されて「いやだ」と言うとショックを受けたような顔をした、優しい人。
今もあの町にいるんだろうか。
当時は俺を金で抱いた人というイメージしかなかったが、こうして色んな男に抱かれてみるとあんなに優しくて誠実な人は居なかったと思う。
「おい」
ハッと千尋の意識が現実に引き戻される。男に何か言われたが半分聞いてなかったようなもので、なにも反応してなかったことに遅れて気づく。
「あ、……うん。大丈夫」
……全然大丈夫な様子ではなかった。
男はじっと千尋を見る。依然として千尋が顔を上げることはない。
さっきまでは手慣れたような誘い方だったくせに、いざホテルに着くとまるでウブのような反応をする。
恥じらっているような、戸惑っているような、まだ心が揺らいでいるような。本気の覚悟を見せたかと思ったのは見せかけだったか。
男は溜息をついた。
「……やっぱり帰れ。遊ぶ金ならやるから」
それが一番だと思った。第一、男の抱き方なんて本当に知らないし、子どもとはいえ他人の肉竿を触るなんて気色が悪かった。
そう思いながら言った言葉を聞くや否や、バッと顔を上げた千尋は思いっきり首を振る。
「ご、ごめんって! 上の空だったのは謝る! でももう誰かから与えられるだけなのはイヤなんだ!」
「最近のガキは口だけは達者だよな。『誰かから与えられるだけなのはイヤ』ねぇ。良い心がけじゃねぇか」
「本当にそう思ってる!」
男は眉間にしわを寄せる。
……優柔不断なクセに。いい加減、イラッときた。
そして千尋の両肩を掴み、顔を寄せる。
「『本当にそう思ってる』? 笑わせんな! お前が一番覚悟きめてねぇだろ! 口だけまともなこと言っておいて、誰かを巻き込むならちゃんと抱かれる覚悟持ってからにしろ!」
「……っ!」
千尋が泣きそうな顔になる。ざまぁみろと男は思った。さっきからその心を決めてない様に腹が立っていたからだ。むしろ泣け。
しかし千尋もそれを聞くだけで引くような男ではない。ギュッと唇を噛みしめ、衣服を脱ぎ始める。
その様子を見て男は再び溜息をつく。こいつは、全然わかってない。
まるで自分が無理やりこの若い少年を抱こうとしているような気がして、苦虫を噛み潰したような気分になる。全然いい気分でセックスに至れない。
何かもうひとつ、こいつがいい加減懲りるようなことをしてやらないと、と考えていた。
すると男が見ていないうちに裸の千尋がぺたぺたと素足で浴室に向かっていく。そして振り向きざまに男に告げた。
「……シャワー、先借りるね」
そのとき、男は不覚にもごくりと唾をのみ込んだ。
千尋の身体は非常に痩せていたものの肌は白くてなめらかで、しかもちょうど身体を見た角度では肉竿も見えず、一瞬見ただけでは少女の体と聞かされても疑わないだろう。
「…………」
……思わず、何も言えなかった。
どうする? どうしようか?
男の頭の中の天秤はゆっくりと『少年を抱く』という項目に傾いていく。
あの顔を、あの身体を、抱けるチャンスが目の前にある。さっきまでの苛立ちや大人の余裕とやらはどこかに行ってしまった。
手が微妙に汗ばみ始める。何故かあの少年を抱くことが罪深く感じて、抱いた途端に警察に捕まるのではないかとさえ思い始める。いや、これはアイツに誘われたわけで。腕にしがみついてきたのだってどっかの防犯カメラに映っているはずだ。
それなら、もう俺に抱かない理由は無い。
――――ガチャ。
心臓が跳ねる。髪にまだ水滴が残る千尋がタオルを身体に巻いて浴室から出てきた。
男はそれを見た途端。
「……うわっ」
千尋の小さな叫びを残してベッドに押し倒していた。
男は若干欲情し始めているのか、熱い息を吐く。
「……お前さ、名前はなんて?」
「千尋……だけど」
「千尋ねぇ、良い名前だ」
それを一番最初に、零二に言ってもらいたかったな。
千尋は心の中で泣いた。
でも今はそれよりも、目の色が変わった男の様子に戸惑いを隠せなかった。
「ねぇおじさん……どうしたの、さっきより余裕が……」
そう言い始めた時、男は千尋に覆いかぶさったまま額に、頬に口づけていく。
――待って。
このまま行ってしまえば、いずれ唇に……まだとっておきたいのに!
「――んむっ!?」
……制する手が空しく宙を掻く。
「んっ……んんっ……!」
いやだ。
いやだいやだ!
男の体を力いっぱい引き離して叫んだ。
「やめろっ!」
その時。
――――ドンドンッ!……ガチャッ
「千尋!」
ラブホテルのカウンターに座っていた従業員の男と零二が部屋に踏み込んでくる。
一瞬部屋に目を通した零二はギリッと歯を噛みしめて男を睨みつけ、走りながら男に殴りかかろうとして驚いた千尋が慌ててその拳を受け止めた。
「まっ……待った待った!」
「あっぶねぇな、このガキ……!」
千尋と同じく驚いた男はベッドから二歩ほど退く。千尋は思いがけない零二の登場と意外すぎるその拳の強さに、目を丸くしながら痛さで痺れる手をブンブン振る。
零二は千尋を見ることなく、キツい目線を男に向けていた。視線は外さず、千尋に問う。
「……なんで止めたんだ」
「いや、だってこの人悪くないから! 誘ったのも俺だし!」
そのフレーズを聞いて後方にいたホテルの従業員は「やれやれ」と言いたげなポーズをして部屋を後にする。
それを目の端で見届けた零二はさらに問う。
「じゃあなんで叫んだ?」
「それは……」
千尋が答えに困っていると、疲れた表情の男が溜息をついた。
「……疲れた。もう帰っていいか? 連れが居るなら迷惑かけんなよ。あと、そっちの兄ちゃん」
男が千尋から零二に視線を向ける。
「……はい」
「睨むなよ。……たまにはソイツからご褒美もらいな。一方的に与えられるのはもうイヤなんだと」
「ご褒美?」
「俺とコイツがやろうとしたこと。男なら考えなくても察しつくだろ」
じゃあな、と言って男は部屋を出ていく。残された部屋には気まずい沈黙が落ちた。
千尋はしばらく男が出て行ったドアの方を見ていたが、やがて乾いた笑い声を出す。
「は、はは……」
怪訝な目を千尋に向けると、その体は震え始めていた。
「止めようとしたのに、キス、唇にされちゃった……」
「キス?」
零二も先ほど千尋からのキスを拒んだことが脳裏に浮かび、その後悔で苦い思いが胸に広がっていく。
「どうせなら、零二に『初めて』を奪ってほしかった……。いつも俺、好きでもない男に『初めて』を奪われてたから」
……その言葉に何か頭の中で違和感を感じた。その正体が未だ分からず、そんなことよりも、と知らない男に抱かれようとした千尋に苛立ちが募る。
「千尋、それよりもなんで知らない男に抱かれに行った。俺は何もまだ答えてなかったのに……勝手に自分で決めて、また居なくなった」
その言葉に千尋は後悔とはまた別に何かをこらえてるような顔をした。
「……また居なくなったのは悪かったよ。けど……――『それよりも』ってなんだ? お前に分かるかはわかんねーけど、俺にとっては大事なことだ!」
「それはお前が男に抱かれに行ったからだろ? どうしてそんなことした。俺は金の心配ならするなと言ったはずだ」
「お前はっ……! お前は、ずっと一方的に養われてる俺の気持ちなんて分からない! 本当ならこれで稼いで、ちゃんと飯も食って、零二にも何かお返しするはずだった!」
「だとしても他に方法はあったはずだろ!」
珍しく零二が声を荒げる。もうお互いの気持ちは悲しいほどにすれ違っていた。その決定打に。
「方法……? 方法なんてねぇんだよ、俺は、俺には……これしか稼ぐ方法がない! そうやって生かされてきた!」
千尋は涙を目にいっぱいためてそう叫び、自分の衣服を持ってその場から走りだそうとする。
だが。
「――んっ!?」
走り出そうとした矢先、零二の腕に制されそのまま口づけられた。驚きで千尋は目を丸くし、その目じりから涙がこぼれる。
零二はばつの悪そうな顔をした。
「これで思い出した。さっきの違和感の理由も。お前の『初めて』を奪ったのは俺だ、千尋」
「は……? 何言って……」
「自分でも無意識ですっかりその記憶が飛んでたけど、俺の部屋で一緒に寝た時、俺はお前に口づけをしてた」
「なっ……、はぁ!?」
「俺も勝手だったな、って少し反省してる。お前には色々言いたいこともあるけど……それも我慢する。でも」
零二はそう言って千尋に顔をぐっと近づける。
「知らない男に抱かれようとしたことは、どんな理由があってもまだ許せない。俺がシャワー浴びてる間、反省の言葉を考えといて」
「……えっ、ちょっと待った。……なんでお前までシャワー浴びるの……?」
「ご褒美をもらいに」
「待って待って! つまりそれって……」
「……お前を抱く。覚悟は決めた」
「……っ!」
その言葉に一気に千尋の顔が赤くなる。零二はそれを見て、浴室へ消えた。
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